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2009年8月26日 (水)

人間の環境の三層構造 加藤周一「語りおくこといくつか」かもがわ出版2009

「文学の効用」

ある宗教系女子大学での講演。加藤氏は、人間の環境は3層をなすという。第一に自然、第二に社会。そこまでは常識的な話だが、第三に「神」が挙げられる。その核に「私」がいるのである。

あるメーリングリストによると加藤氏は死の直前カソリックに入信し「ルカ」の洗礼名を得て死亡した、という。

確かに、「神」は私ではないし、社会でもない。

おそらく、私の持つ原則の普遍化されたものが「神」なのだ。

それは私の外、社会の内側に存在する。

私が抱く倫理的な規範、それは社会でもなく、私でもなく、私の環境そのものだ。

私と、社会や自然を媒介するものが「神」といってもいい。

私と「神」が固い構造をもっていれば、社会に私が浸食され、天皇主義やナチスに冒されることもないだろう。自然をありのままに見ることができなくて、超自然現象を信じたりすることもないだろう。

しかし、「私」がなくて「神」だけが強固な場合、神と社会の間には境界がなくなる。それが中世というものである。

加藤さんの講演の趣旨とは違ってくるが、こういう構造を認識することこそが文学の効用なのだろう。

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コメント

先生の記事で加藤周一氏が死ぬ少し前にカソリックの洗礼を受けていたことを知り、いくつか氏の論文を読み返しましたが、『親鸞』という小論の以下の部分に注目しました。
「パスカルPascalはいう、神があるのか、ないのか。どちらが本当らいしか。『理性はこれを決定することができない』。神とわれわれを隔てる無限の彼方で、『賭けが行われる』。表が出るか、裏がでるか。『神がいるという表をとって、損得を考えよう。二つの場合がある、もし勝てばすべてを得、負けても失うものはない。それならば躇わずに、神がいるという方へ賭けるのがよいだろう』。」
「人間の人間としての資格での平等という考え方は、キリスト世界でも、歴史的には、超越者のまえでのすべての人間の平等ということに由来している。超越者を媒介とすることなしに、人間の人間としての平等の原則をうちたてた社会はない。・・・(中略)・・・社会的規制としての倫理の内面かにも、超越者と個人との関係が、歴史的には欠くべからざる条件であった。キリスト教信仰の超越的構造は、同時に、一方では人間の人間としての平等を確立し、他方では外面的な規制をはなれて倫理的な価値の根拠を内面的な「良心」におく原則を確立したと言えるだろう。」(親鸞は超越者から任円への逆の方向を辿らずに終わったことがキリスト教と異なっている)
カソリックへの入信について、当初かなりの違和感をもちましが、こうした氏の考え方を読むと、むしろ当たり前の結論だったような気がします。
先生の記事の後半部分はおもしろい指摘ですね。

投稿: とおりすがりの民医連職員 | 2009年9月28日 (月) 23時25分

コメントありがとうございました。通りすがっていただいて幸運でした。

引用されたことと同じ内容が、この本の「宗教と現代科学」という自由討論でも展開されており、親鸞もパスカルも「信仰しても救いがあるかどうかは分からないけれど、もし救いがあるとすればそれしか方法がないから、私はそれに賭ける」という立場であったことが述べられています。「親鸞や一休はキリスト教の考えを全然知らなかったにもかかわらず、同じような宗教思想(註:他力本願)を発展させていたと思います」とも加藤氏は述べています。

悪い癖で、ふと思いついたのですが、親鸞や一休に本当にキリスト教の影響がなかったのでしょうか。親鸞や一休にというより、その源になっている中国仏教に、という話です。景教という形で、キリスト教の周辺部分が中国に伝わったことは高校の教科書にも載っています。トリとブタとヒトのインフルエンザウイルスがまざりあうように、中国には何でもありという妄想です。

投稿: 野田浩夫 | 2009年10月 8日 (木) 13時37分

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