林京子「無きが如き」(1981年、講談社文芸文庫1989)と肥田舜太郎医師(「ヒロシマを生きのびて」あけび書房、2004)の関連
長崎への出張には、もう一ついいことがあったのを思い出した。90歳を超えた肥田舜太郎先生の講演を聞き、夜は同じテーブルで会食できたことである。ふと、数年前、故加藤周一さんとも、大勢がいる中で偶然同じテーブルに座ることができたことを思い出した。こうした長老とはそばに座るだけで学ぶことが多い。というか、そうした形でしか学べないことがある気がする。
さて、講演の中で肥田先生は、1975年に初めて国連に行った話をした。
当時の国連事務総長はワルトハイムだったが、彼は核兵器廃絶の要請に共感を示しながら、「被爆者が今なお苦しんでいる」という肥田先生のレポートはとうてい受け付けられないと言った。というのは1968年、当時の事務総長ウ・タントによって(日米両国政府が原案を作成した)「被爆者のうち死ぬべきものは死に、生存している被爆者は全くの健康体である」というレポートが発表されていたからである。低線量被爆や内部被爆が大きな問題となっているということは、国外では全く知られていなかったということになる。
驚愕した先生は「原爆の医学的傷害」をテーマにした国際シンポジウムを1977年に日本で開くべく奔走し、民医連の事業として詳細な報告書を完成させるのである。
それから今朝の話となる。起床して着替えるまでの短い時間に読み直し始めた林京子「無きが如き」(1981年、講談社文芸文庫1989)のなかに、見逃せない一節を私は発見した。
この小説は、主人公が現在は「女」、 回想では「私」と書き分けられ、また主人公の重要な友人2人に「春子」、「花子」と不思議な命名がされるなど、意識的な構成が見える作品である。
その中に、爆心地から1000メートルのところに開業し、5人家族のうち1人だけ生き残った70歳代の医師が出てくる。彼は、最近70歳以上の被爆者に白血病が増えてきた、初期の若年者での白血病多発に続く30数年後の2回目のピークが来ているのだと語る。放射能の被害とはっきり断定できない、しかし、歴然と結果だけはある、「原爆被害の実相」長崎レポートにはその詳細な報告がある、断定できないことと人体に影響がないということは全く別の問題だ、という。
この「原爆被害の実相」長崎レポートとは何だろうか?長崎原爆被災者協議会のホームページに次のような記載がある。
「1977年7月、国連NGOによる『被爆の実相とその後遺・被爆者の実状に関するシンポジウム』がはじまりました。このシンポジウムには、準備の段階から長崎被災協も積極的に対応しました。被爆者調査などこのシンポジウムへの取り組みの成果は『原爆被害の実相・長崎レポート』としてまとめられ、7月末の広島でのシンポジウム本集会に間に合うように刊行されました。それは、それまでにみられない重厚な内容『原爆白書』でした。」
このレポートこそ肥田先生たちがまとめたものではなかったのだろうか。
もちろん作中の医師は長崎在住で平和運動にも関わっている被爆医師であり、肥田先生そのものではない。しかし、たまたまそういう医師と作者が知り合いだというのも偶然すぎる。設定は別にして、ここで語っている人は肥田先生なのではないのか。
ここで講演会場で買った肥田舜太郎「ヒロシマを生きのびて」あけび書房、2004を取り出すと、巻末には何と林京子さん自身が寄稿している。医学者の目を通した、被爆者の実相を聞くため二人が会ったときのことが詳しく書かれている。
ただし、その文章は2003年に書かれ、二人が座談したのは14、5年前とされているので、肥田先生と林さんの出会いは作品より10年ぐらい後ということになる。となると、上に書いたわたしの推測は全くあたっていないということになるのだが・・・・。
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