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2009年5月28日 (木)

イチローの問題:隠喩としてのスポーツ(にせソンターク)

今日は、イチロー・カワチでなくイチロー・スズキの話。

今日現在21試合連続安打中だが、それよりも彼が安打を打つたびに日本のバッターの通算安打数記録が自動的に更新されていることが私にとっては気にかかる出来事である。

(それは、当直するたび、ある救急病院の高齢当直記録を作っている私に似ているからだ(笑))

そのイチローに関わる問題が二つある。

①イチローは偉大な選手だが、彼がいることで他の選手が萎縮して、チームは勝てない、彼がいないほうがチームとしては戦力が大きくなるという矛盾の中にいること。

②偉大な4000本安打記録に到達するころ、プロ野球は人気を失い、機構が消失している可能性があること。(プロ野球機構が存在しない中でのプロ野球の大記録。その国家や社会がなくなったあとに残された、その国家や社会の歴史の大書のようなものである。)かつ、そうした事態を招いた責任の一端が彼の態度にもあること。

人々がプロスポーツについて語るとき、すべては隠喩である、と今気付いた。

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