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2009年5月29日 (金)

大江健三郎「ヒロシマ・ノート」岩波新書1965

4月5日のオバマのプラハ演説や、北朝鮮の核実験が成功したらしいというニュース、原爆症訴訟東京地裁判決、加えてロールズのヒロシマ発言を知ったせいで、久しぶりに手がこの本にのびた。

まちがいなく高校生の頃読んだはずで、集会で挨拶する原爆病院の患者代表宮本定男さんの件など部分的に覚えているところもあるが、全体としてはまるで初めて読むような気がする。おそらく、高校生の私には理解できないことが多すぎたのだ。

著者20歳代の終わりに書かれた小さな著作である。17歳の少年には難解だった文章でも、57歳の読み手には、文章の力みすぎが気になるものの極めて平明である。

再読後最大の発見は、現広島市長の秋葉忠利さんが利発な青年として登場しているというのが私のまったくの思い込みだったことである。そのように誰かにしゃべったとこともあるが、実際には秋葉さんの名前はこの本には出てこない。

それは、また、別の大江の文章だったのだろう。訂正しておかないといけないが、誰にそんな話をしたのだったか思い出せない。

いくつか印象的だったことのメモ。

○1961年、ソ連の核実験再開に日本共産党が直ちに明確な反対を表明しなかったことが原水禁運動の叙述に暗い影を落としている。同党が中ソの誤った影響から脱するにはもう少し時間がかかったのだ。

○広島の原爆病院は公立病院でなく、広島日赤病院に配分された年賀はがきの利益金によって建設されたものだったことは今日まで知らなかった。なんとなく国立病院だと思っていたのである。これは全く私の不勉強のせいである。

○ヒロシマの人間の悲惨を償い、ヒロシマの人間の復権を目標にしないのであれば、何らかの政治取引で核兵器が廃絶されても無意味だ(・・この項は今となっても難解という点で印象に残る。)

○東京オリンピックの聖火最終ランナーが、広島県三次市出身の坂井君という確か早稲田大学の学生だったことは、当時TVのオリンピック中継にかじりついていた中学1年生の私の記憶にも刻まれたことだが、彼が選ばれた理由が1945年8月6日生まれの青年だったからというのは再読して初めて知った。それよりもあっと思ったのはこれにアメリカ側が不快感を示したという記述である。

○峠 三吉は死の直前、共産党員として船越町の日鋼事件の闘争に参加している。船越町の日鋼事件とは?・・・調べてみると日鋼争議は1949年、峠三吉の術中死亡は1953年と若干時間が離れている。

○原爆製造に協力したアメリカの知識人にとって、原爆は現代の「大洪水」であって、生き残るノアが現れることへの期待があったはず、という大江の疑いとも悪夢ともつかない奇妙な想像。(・・・・*これは、長崎の永井博士の考えと似ているのではないか。彼は原爆を神の怒りの現われと解釈していた。)

○その奇妙さにも関わらず、広島で生き延びた人の生き方が世界の人類を救済する、という結論は妥当である。

高校生でなく、30年以上の経験を持つ医師となった今では、この本の中でもっとも気になるのは、原爆投下時広島にいた医師たちの記述である。それを問う広島市医師会の簡単なアンケートが彼らにどれほど重く打撃的な意味を持っていたかという著者の想像力は鋭い。

もし、私だったら?最も可能性が高いのは当日の死亡だろうが、生き延びていたら被爆者の救済に全力を尽くしていただろうか?

そう考えていると、この本の持つ意味が改めて明らかになった。医師であろうがあるまいが関係ないのだ。

いってみれば、私は広島の内側の人間であり、大江は広島の外の人間である。それでもこの古い本を読む意味があるのは、「もしその場にいるのが私だったら?」と想像し続けることが、この世界を生きていく上で普遍的に求められる姿勢だということを教えてくれるからである。

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