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2009年4月13日 (月)

私の医療観 素描

どうして、いま、こんなものをブログにアップしておきたくなったかは私にも分からない。まだ未分化な形で私の心の底で動いているものの上澄みを、形にしておくというのは何か悲劇的なことを予感しているからかもしれない。そうしたことは多く冗談に終わり、粗末な論稿が人目に触れる恥だけが残るのだろうが、ともあれ、メモをメモのままここに載せてみたくなったのである。

私の疾病観を広げてくれた本はなんといってもマック・ウィニーを中心とする「患者中心の医学」である。医師の主観としての「疾病」、患者の主観としての「病い」が等しい重みで存在するという考え方は、大げさにいえば、革命だった。同等の意義を持つ医師の主観宇宙と、患者の主観宇宙の衝突こそが医療現場なのだという展望に私の心は躍った。医師の働く舞台は患者の主観世界だという言い方も可能であるとも気付いた。患者の主観世界の一登場人物であることを自覚したとき、真に医師としての合理的な振る舞いが可能になるのである。それは診療という場面の真にダイナミックな把握に他ならなかった。

しかし、最近、もう一つ、私にとって革命的な書物にめぐり合った。それはマイケル・マーモット「ステータス症候群」である。なぜ人間は病気になるのかは、時代によって違うが、現代の先進国で人が病気になる由来をいとも鮮やかに解明したのがこの本である。   

「患者中心の医療」が医療の内側を深いところから照らし出したのに対して、「ステータス症候群」疾病の発生原因を大づかみに捉えた。すなわち病気になる人間という生き物の集団的生態を、地上100メートルの高さくらいから見事に描写したのである。ナショナル・ジオグラフィックチャンネルで見るアフリカのサバンナの動物群像空撮をふと思い出したくらいである。

成人病、生活習慣病というくくりもそれなりに新鮮な時代もあったのだろうが、その寿命はすでに尽きている。尽きているどころか、健康の自己責任原理に流用されて害悪のほうが大きくなっている。

まさに、その時期に、どんな疾病にも事故にも社会格差が反映しているということをマーモットは主張し始めた。

その上で、格差と疾病をつなぐ媒介項こそが政策的介入のポイントであることが示されて、WHOは、疫学的に証明された媒介項を「ソリッドファクト」として示し、各国政府・保健関係者に積極的介入を呼びかけた。

「共同の営み」や「生活と労働のなかに疾病の原因を見抜く目と構え」という言葉に象徴される民医連の疾病観・医療観は驚くほどこの内と外に向かう専門家の証明の方向に合致している。提唱された時期は、民医連のほうがはるかに早い。

実践的専門家集団のすばらしい直観であったと思える。

疫学の専門家によってその直観が証明された今、そこから導き出される政策的方向の先導役になり、新たな直観・作業仮説を提供する役割がふたたび課せられている。

その仮説はおそらく「国民の健康度こそが社会に正義が行われているかどうかの最良の指標だ」ということだろう。

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