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2009年4月30日 (木)

頭の悪い読者として 岩井克人「貨幣論」ちくま学芸文庫版、1998

資本論を読み始めた40年前、私には使用価値と、価値と、交換価値の区別がなかなか飲み込めなかった。

とくに価値と交換価値の区別は、実は今日の今日まで分からないままに経過していた。(そんなことが分からなくても、私の日常生活での政治的判断に何ら支障はなかったのである)

岩井克人の「貨幣論」は何度も読み始めて途中で止めていた。最近、柄谷行人「マルクス その可能性の中心」を、購入後実に20年位して読み終えたのをきっかけに、岩井のこの小さな本も、ようやく第1章を読み通せたのである。ここでようやく価値と交換価値の区別がはっきり分かった気がした。*改めて思うのだが、「使用価値」は「有用性」とでもいう名称にしてもらえるとありがたい気がする。「使用価値」という言葉の中にある(価値)という言葉と、上記の「価値」との間には何の関連もないからである。

言語と貨幣の類似に同じ論旨で触れているなど上記の2者がよく似た本だなぁ、と不思議に思っていたのだが、今日読み返してみると序文の註に柄谷の名を挙げて「その可能性の中心」という言葉があり、そもそも連続した主張で書かれた2冊であることは最初から宣言されていたのである。

つくづく頭の悪い読者であると自分のことを考えた。

ところで、この2冊に共通するのは、価値形態説への関心である。

ごく大雑把に言って、労働が生産物の「価値」を作り出す、その大きさは生産に必要だった労働時間で決まる、というのが「労働価値説」である。

この生産物の「価値」は超歴史的なものだが、資本主義の時代にあっては、「商品」の「交換価値」の形で現れる。むしろ、資本主義の時代に「商品」の「交換価値」として現象して初めて、「価値」はその存在を気づかれるとでもいうべきかも知れない。そして交換価値の大きさは貨幣で表現される。これが「価値形態説」である。

岩井は、マルクスが貨幣も商品であり労働価値説で貨幣という商品の価値も説明できるとするのは、間違いだという。貨幣は商品ではなく「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからである」と説明している。ニクソンショックという名前で金兌換制が完全に崩壊したのは30数年前であるが、いまにコンピューター上の記号としてしか貨幣が存在しなくなる日も考えられるので、これはこれで妥当かもしれない。その意味でも、言語と貨幣は、それぞれ人間世界と商品世界を成立させる媒介因子として酷似する、というのも理解できる。

岩井によれば、したがって、ここで私たちは労働価値説を捨てなければならなくなるのだという。労働価値説そのものをだろうか?それとも、貨幣に関してのみの話だろうか?前者だとすればついていけなくなるのだが。

次は、その貨幣がどのようにして生まれて来たかが考えられなければならないが、それは第2章のようである。

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