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2009年1月 7日 (水)

医療の安全について

少し考えるところがあって、私がいる病院の院内LAN上の掲示板に短い文章を三つ載せてみた。院内LANには書きにくい解説を含めてここに採録しておきたい。

①医療安全を患者との「共同の営み」にすることについて

その方向の正しさは自明であっても、具体的な方法については、新しいブレークスルー(画期的な方法)が見つけ出されていないというのが現状である。

元来、この課題を全日本民医連に最初に提起したのは山口民医連の私達だという根拠と自負を持っているのだが、その責任もあって、新しい方法を提案したい。

それは、インシデント報告=アットハット記録を患者さんと共有することである。

アットハット記録を書くことを医療従事者が独占することなく、患者さんが「これは身の危険を感じた」ということをいえる場を作り、医療安全を私達が患者さんを守るという一方方向でなく、双方向のものにしたい。具体的には、「虹の箱」の安全版を作るか、定期的な安全に関する患者の体験収集(アンケート)である。

*私自身は、かなり以前だが、ある歯科医院に行ったとき、そこの歯科医師が前の患者さんの口の臭いのする手で、私を治療しようとしたことがあるのが強烈な記憶になっている。

これを一般的な苦情ということでなく、安全という観点で意見したいとその頃から思っていたわけである。

・・・・・・・・・・しかし、この提案は簡単に受け入れられそうにない。実行は簡単なことだと思えるのに、枝葉末節の意見が次々出てくる。新しいことは何一つしたくないという感じのそれらの意見を聞いていると、まるで、有職故実に捕われた平安貴族と話している気になる。滅亡だけが待っている人たちとして。

②デジカメ

少し前のことになるが、ある職場の整理整頓が悪いということが、デジカメの写真つきで院内LANにアップされたことがある。そういう方法が、私には若干懲罰的に過ぎると感じられて、心が暗くなった。
つい最近もある調査にデジカメを持っていくという話が出ていて、前回が効果的だったよねと話されているのを聞いた。有無を言わさず欠点の証拠をつきつけることが出来るという意味なのだろう。 

対権力関係でなく、対職員関係では、公平さと愛情、この言葉が変なら、教育的姿勢が一貫して求められるのである。
その点で憂慮しているものがここにいるという事を知らせたくて、この一文を書いた。

・・・・・ステレオタイプな偏見に凝り固まった人たちは、意外にデジカメなど新しい機械が好きである。そういう機械と縁がなく地道に病院を支えている人たちの困難をあげつらうのに、その機械を使う。その困難は、本当は自分たちがその人たちに押し付けているのに、である。

③ 医療事故と個人責任

医療事故の調査にあたって、個人責任と組織責任が半々だという認識を持っているならば、その人はその任務に当たらないほうが良い。

というのは、「全面的に組織責任だという枠組み」で調査して初めて組織に有益な結論を得るのだからである。

もちろん、そういう枠組みで対処しても、どうしても個人責任としかいいようがない場合もあるだろうが、その結論は最後の最後の話である。
個人責任部分があるということを最初から口にしてはならないのである。

・・・・・・これは、私が知り合った何人かのリスクマネージャーが、「でも、結局は医療事故は個人責任じゃないかと思います」と言ったことから書いた。科学的原則は教育されても、社会の主流が自己責任論になっている時、人はいつでも教育以前の俗流ラインまで押し戻されるのである。個人責任あるいは自己責任ということばが自分の頭に浮かんできたら、いやそれは間違いだと反射的にでも思うようにして欲しいものだ。

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