柄谷行人「定本 日本近代文学の起源」岩波現代文庫、第5章「児童の発見」・・・サイード「オリエンタリズム」との類似が本質だ
15日までに格差症候群についての総論をまとめようと思っているので、読みかけの本の進行が極端に遅くなっているのだが柄谷行人「定本 日本近代文学の起源」はいつも持ち歩いて少しづつ読んでいる。今日は第5章「児童の発見」を読んだ。
明治政府の「学制」=義務教育の施行が、それまでの日本社会に存在しなかった「子ども」や「児童」という概念を作り出し、それを前提に「児童文学」が成立したと柄谷は論じている。言ってみれば「子ども」や「児童」も近代になって初めて現れた「制度」なのだと。
では、近代以前と以後の日本では子どもと大人はどう違うのだろう。
近代以前では、子どもは小さな大人だった。「元服」などの通過儀礼を経て、別の大きな大人になる。そこには大きな不連続があり、子どもと大人の間に統一され、共通した「人格」という考え方はなかった。
近代以降では、一個の「人格」が、未熟な子どもとしてスタートし、連続的な成熟過程を経て大人になっていくとされる。そのような考え方・見方自体が、近代の資本主義社会の人為的に作り出した、考え方の枠組み・まなざし・作業仮説なのである。
*どこで読んだのか・・・宮本常一だったか、柳田國男だったか・・・近代以前の親は、子どもには子どもとしての一生があると考えていたという。そこには、「子どもの晩年」というものもあり、子どもが人間としての生を全うすることが、ある種対等な人間同士として尊重されたというのである。多くの子どもが子どものままで早世していくことがごく普通だったとき、自然に生まれた考え方だったといえるだろう。子どもが大人になるまで生きるのが当然になるのは近代以降の話である。「成熟過程にある子ども」という考え方も近代以降の産物である。
この章で強調される大事なことは、何事も「自明のもの」として捉えず、自明性を疑い、あくまで歴史の中で見るということ、歴史の中で相対化して考えるということである。
これは、柄谷だけの姿勢ではなく、加藤周一にも不破哲三にも共通したものである。何かを考えていくときの大原則と言ってよいだろう。
そこで気付くのは、柄谷の仕方は、サイードの「オリエンタリズム」に似ているということである。
サイードがパレスチナ人の立場から、西欧からアラブに強制された(自己)認識の枠組みを西欧のアラブ支配の道具にすぎない「オリエンタリズム」として発見したのに対し、柄谷は、いわば日本の被支配者の立場から、明治の支配者から日本の住民に強制された近代的認識の枠組みを明らかにしている。その与えられた認識を自ら描いた自画像のように日本の被支配者は思い込んでいるのである。
「風景」も「児童」も「文学」も明治の支配者が自らの支配を確立していくために作り上げた人為的な枠組みにすぎず、そこかしこに支配のための仕掛けが充満している。その支配のための仕組みを暴いていくことが、サイードが欧米で成し遂げたことを日本でも実現していくことなのだろう。s
そういう仕掛けを取り去ったところに現れる日本社会の像こそ、これからの私達の行動の出発点なのである。
*ところで、柄谷は明治政府をごく自然に「明治の革命政権」と呼んでいる。これはおそらく柄谷が明治維新をブルジョワ革命と考える労農派の流れの中にいるからと思える。これに対し、私の立場はブルジョワ革命は、明治維新から今日までが断続的に顕現化しながら続いている、なお100年は続くだろうというものだから、さほど違わないといえば違わない。フランスだって、1789年から今日まで、同じ市民革命という範疇で括られる革命が続いているのである。
しかし、革命の顕現化が「革命政権」の成立ということになるのかどうかは疑問である。フランスでは「革命政権」が何度か出現し、消失して行ったといえるだろう。しかし、日本では革命政権と呼べるほどのものはなかったのではないか。明治政府は、もちろん「革命の中にあった政府」であるが、「革命政権」とは定義できないのではないか。
言葉遊びに類するような疑問であるが・・・。
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