マイケル・マーモット「ステータス症候群」日本評論社2007を繰り返し読む
ここのところ、マイケル・マーモット「ステータス症候群」日本評論社2007を繰り返し読んでいる。
一言で、内容が話せない。要約を許さない本という印象である。イギリス人が書いた本であるせいか、章と章のつながりが微妙である。なんと言うか、構造的でない。加藤周一さんが説明する日本の建築物みたいで、建て増し、建て増しでつながっていくという印象がある。文章も随筆的で、著者の怒りもさらりと書き流され、ふんだんな冗談のなかに上品に隠されてしまっている。
したがって、本当は堅固な構造や、社会正義への真剣なまなざしも苦労して探し出さなければならない。よく読むと、章の終わりに、次の章の意味づけや予告が必ずなされているなど、ある種の約束事があるのが見えてくる。逆に言うと、前の章を読まないと次の章の意味がわからない仕組みということであるが、それがわかると、全体の見取り図が次第にわかってくる。
私がずっとこの本を持って歩いているので、題名を見た人たちからは「ステータスを欲しがるという心理的な病気のことですか」と聞かれる。人によっては「先生はそういう病気なのですね、そんなに地位が大事なのですか」とまで言う。
実は、そうではない。副題に「社会格差という病」とあるように、「ステータス症候群」に冒されているのは、社会なのである。所得、教育、職業階層などからなる社会経済的地位間の格差を拡大し、その結果、健康格差を激化させている社会に、マーモットさんはそういう診断を下した。
もう一つ、「生活習慣を原因とする諸疾患」という意味で名前が発明された生活習慣病という概念に対抗して、「社会経済格差によって生じる疾患の総称」という意味づけもできそうである。むしろ、ステータス症候群のほうが生活習慣病をも包含する、より大きな概念ともいえる。
というのは、高血圧、糖尿病、メタボリック症候群など、生活習慣病大半の疾患において、社会的格差の勾配に連続的にしたがって、低い方の人により多く発生することが確認されているからである。(反対に悪性黒色腫、白血病、乳癌飲みは社会階層の高いほうの人に多く発生する)
ステータス症候群は、そういう意味で社会自体の(隠喩としての)「疾患」 と、社会が原因になっている疾患の総称の二義性があるといってよいだろう。
この症候群は、日本では1970年代には潜伏し、2000年代に顕在化した病気である。今年の世界恐慌で、もっと劇症化することは間違いないので、私は真剣にこの本を読んでいる。これが1980年代に書かれている本だったとすれば、鈍い私は、イギリスの風土病について書かれたものとして、あまり興味を感じなかっただろう。
さて、生物学的に不可避的ともいえる階層構造を持つがゆえに社会は人間の健康に悪く、一方、協同と信頼という本質を持つがゆえに社会は健康に良い。あい矛盾するこの両者のバランスの上で私たちは生きているのである。どうすればそのバランスを、協同と信頼のほうに傾けることができるか。
社会経済的地位は直接的・間接的に健康に影響を与えている。所得はおおむね直接的にだが、教育や職業階層は間接的な影響が大きい。では何を介して、影響を振るうのだろうか。
その媒介因子が、センのいう潜在能力の概念でよく説明できる。思考のバックボーンはアマルティア・センである。
さまざまな媒介因子から抽出して、もっとも重要な二点が浮かび上がってくる。それは、自分のことは自分で決めることができるというコントロール力=自律性と、思うような社会参加ができるかどうかということである。
三点目に社会的サポートのあり方も、社会経済的地位と健康を結ぶ重要な媒介因子である。
したがって、所得の格差を小さくし、自律と社会参加という人間の潜在能力を開発し、社会的な支援を強化すれば、健康格差は改善できる。
社会全体の所得が増えるというだけではだめだ、ということが大切である。
健康を決定している社会経済的因子を具体的に8テーマ提示しているのが、マーモットさんが責任者になってWHO欧州事務局が作成した「ソリッド・ファクト 確実な事実」である。そこには社会経済的地位だけでなく、それと健康を結ぶ媒介因子のなかで具体的に重要なものが挙げられている。上記の2点、自律性と社会参加は、具体的項目に共通する抽象的本質にあたる。
思い切り、短く要約すればそういうことである。
個人を相手にした臨床現場でも、具体的な疾患の背景にあるステータス症候群としての本質を見据えた対処が重要になってくるだろう。
生活習慣病との関係で言えば、生活習慣は個人が具体的にどういう病気にかかりやすいかを決定し、社会階層構造上の地位はそもそも病気になりやすいかどうかを決定する、といえる。
さらに、生活習慣の改善に最大限努めても、生活習慣自体が社会格差によって影響されているので、病気は1/3しか減らない。この1/3という数字は、イギリスのホワイト・ホール、日本で言えば霞ヶ関のエリートにおける数字である。残り2/3以上、実はほぼ全部がどうなるかは社会的な地位が決める潜在能力の欠乏への政策如何にかかっているのである。
*この潜在能力は、湯浅 誠がいう「溜め」と同じものである。
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