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2008年12月 3日 (水)

大琳派展(東京国立博物館)の感想

もう終わってしまった展覧会の感想を述べようとするのも、実は言いたいことがこの展覧会とほとんど無関係だからである。

大琳派展を見て、もっとも印象に残ったことは、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一というそれぞれ約100年の時代を隔てて、面識もなかっただろう三人が、一つの派を作る、あと二人は後継者になっていくという歴史のダイナミックである。

すなわちテーマは運動の継続と後継者ということに落ち着く。

日本の民主化運動に後継者がいないということが、私たちのなかでも時々語られる。

しかし、ものの30年もたてば一つの活動スタイルは終わるのが当然である。

後継者がいないと見えるのは、同じスタイルで活動する後継者がいない、という意味に過ぎず、それはむしろ当然である。 

自分の活動スタイルは一代限りなのが普通だ。

後継者がいないことを嘆くあなたのような活動をする人は、あなた一人で十分だったのだ。(たとえば、もうすぐ廃刊するかもしれないということが伝えられた雑誌TIPの運動にしても、それにはそれなりの理由があるのだろうし、おそらく時代はもうひとりの浜六郎先生を必要としていないのである。)

時代に見合った新しいスタイルで活動している後継者はどこかにいるはずだ。
その人が後継者であるかどうかをすぐには理解できるとは限らない。老いれば、自分のスタイルからものを見てしまう悪癖が身につきやすいからである。

逆に、若い頃の自分自身は誰かの後継者であるなどと思ったことが一度だってあっただろうか?そういうことは普通はないことから考えて、後継者の側が名乗り出てくれる可能性はゼロに近い。

(ただ、時々、神戸の額田 勲先生までには結局なりきれなかったなぁと思うことがある。こういうときは出来損ないの後継者を意識しているのだろうか?) 

しかし、どうであるにしても、いずれ切迫した現実が証明してくれるだろう。
そういう人がいれば組織の名前が続くかどうかは実はさほど問題ではない。あえて言えば、それが党であろうと何であろうと。

つい、最近まで私は深く絶望していたが、琳派のゆったりした歴史を知って、そう考えると、ようやく心の平衡を取り戻すことができたのである。

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