相談活動のあり方・・・「『生きづらさ』の臨界」(湯浅誠、河添誠ほか)旬報社、2008の感想①
(以下は11月25日発売の上記の本を読んだ感想の一部である。現時点で、きわめて重要な意義を持つ本のようなので、詳しくは、あとでまとめてみたい。)
介護保険が始まった頃、県社保協で「介護110番」を大々的に取り組んだことがある。
県保険医協会の役員をされている大先輩たちも参加した。相談に応じる受話器を握っている姿を会報用の写真に取られて喜々とされていた。
しかし、実際にかかってきた電話相談への返答が「まず市役所に行って係の人に聞いてみなさい」ばかりだったのには、当時の私もあきれてしまった。
どこが110番なのか?
これはたとえば、生活保護が必要な人に、福祉事務所の地図を渡すことと変わらない。
それで何になるだろう。
「水際作戦」で簡単に撃退されるだけである。
「申請用紙がほしい」と明確に言わせ、「申請用紙さえ渡してくれなかったらここに電話しろ、誰かが助けにすぐに行く」、と言っておかなければ、助言したことにはならないのである。
しかし、いまの私たちも似たようなことをまだ続けていないか?
「労災」疑いや「不当労働行為被害」疑いの人に、
「労働基準監督署に相談に行きなさい」などと言って済ませていないか?
労働基準監督所の地図を渡されて、相談室に通されても何も知らない事務系職員がいるだけである。
病院に行って、受付の人に一生懸命症状を訴えるのに似ている。
「職場の労働基準法違反を訴えたくてきました。資料はここにあります」
「じん肺で労災認定を受けたくてきました。医師の診断書と職歴はここにあります」
という風に話せば初めて労働基準監督官が応じてくれるのである。
助言をするには、常識だけでは足りない。
どれだけ常識を超えた、役に立つ助言ができるかは、日々の研鑽によるのであるが、少なくとも、「こんな助言で役に立つのかどうか?」という自分自身への質問は欠かしてはならない。
被害者が目の前から消えてくれればそれでよいという対応だけは決してしてはならない。
| 固定リンク
« 同じ金融危機なのだけど・・・事態をコントロールできる資本家と出来ない労働者と | トップページ | 「『生きづらさ』の臨界 ‘溜め’のある社会へ」河添誠・湯浅誠×後藤道夫・中西新太郎・本田由紀、 旬報社2008・・・キーパースンとしてのアマルティア・セン »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 雑誌 現代思想 6月号(2016.06.04)
- 内田 樹「街場のメディア論」光文社新書2010年(2016.05.11)
- 「『生存』の東北史 歴史から問う3・11」大月書店2013年(2016.05.10)
- デヴィッド・ハーヴェイ「『資本論』入門 第2巻・第3巻」作品社2016/3 序章(2016.05.04)
- 柄谷行人 「憲法の無意識」岩波新書2016/4/20(2016.05.02)
コメント
こんにちは。いつも頷きながら拝見させていただいています。
>助言をするには、常識だけでは足りない。
本当にそうですよね。
相談してくる相手が何を求めているのか、手続きには何が必要で、その場面で予想される困難とは何か、その場合の対処法は何か、など、現実に即した情報を提供できるかどうか。
相談される側同士において、相談内容を共有し、その対処法を探し、新たな情報につなげていけるかどうか。
そして、最後に、相談者に対して、「困った時はいつでもうちにいらしてください。力になります」
という一言を言えるかどうか。
これらができなければ、相談は、受ける側の自己満足のためのものでしかないですよね。
耳が痛いお言葉です。
投稿: 臥蛇 | 2008年12月11日 (木) 11時45分
コメントありがとうございました。
身内に向けて書いたつもりだったので、若干偉そうに言ってしまいました。
投稿: 野田浩夫 | 2008年12月11日 (木) 14時59分