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2008年12月16日 (火)

小診療所の30年・・・朝日健二さんの一言

12月14日、山陽小野田市の小さなホテルで、私の所属する医療生協の現存事業所では最も古い小野田診療所の開設30周年祝賀会を開いた。

小野田診療所は、1978年10月1日にスタートした。山口県の民医連診療所としては、1967年の徳山・周南診療所、1974年の宇部・見初診療所、1975年見初こども歯科診療所に次ぐ4番目の診療所だった。

それから15年して歯科を併設、30年目に訪問看護事業を訪問看護ステーションとして分離し、同時にディサービスも建設するという、ゆっくりと地道な前進を遂げてきた。

開設時の所長が私だったが、私は医師になって3年目の26歳だった。今では考えられないことである。それからほぼ数年おきに所長は交代しているが、私は何度か(事実上の)所長にならざるをえなかった。

2年ほどの短い初期研修を終えてすぐに現場に飛びこんでの診療所建設、その勢いを駆って病院建設に向かうというのが、戦後の高度成長期の民医連医師の典型的スタイルだが、私あたりがその最後の世代ということになる。今年から全日本民医連の理事になったが、理事を務める医師のなかにも私のような経歴の医師はいない。

30年前の開院祝賀会は、近くの公共の宿で開いたが、当時の市長や医師会長も来てくれた。市役所の職員も診療所の健康友の会に多数入ってくれて、後の市長が、何かの交渉時に、自分もかなりの金額を協力したものだといったので交渉しにくい気分になったことがある。

1981年に近くの小学校の講堂で「診療所健康祭り」を初めて開いたが(それは、岐阜民医連の岩井雄二医師の発案だった)、その時も市長が挨拶に来た。それから4年くらい市長の挨拶は続いた。

当時、隣の宇部には見初診療所があったが、ここは宇部市医師会の入会も断られて、医師会の検査センターも使わせてもらえず、所長が何時間も残業して原始的な器械で生化学検査をしていた。(検査が終わると飲み屋に直行する日が多かったようだが。)

それに対して小野田では、最初から暖かく地域医療の一員として迎えられていたわけだ。こうした関係は、1982年に宇部協立病院を作る時に大きな影響を与えた。小野田できちんと医師会・行政と協力関係を作っているのに、宇部で差別されるいわれはないと主張することができたわけだ。まもなく宇部での不正常な状態は解消された。

宇部協立病院を作ったあとは、どうしてもその病院を軌道に乗せるということに力が集中されて、小野田診療所独自の方向をもてない時期も来た。これといって特色のない診療は経営も低迷した。

そんな、ある日、有名な人権裁判「朝日訴訟」を朝日茂さんの養子になって引きついだ朝日健二さんが、お母さんの件で診療所を訪ねてきた。隣の山陽町に住んでいたお母さんの訪問診療を私に依頼されたのだった。朝日健二さんも宇部の出身だったのである。

それまで何回か、家族の人に連れられて受診されたことがあるお母さんは、私の記憶では、麻痺もなく、一見正常に見えた。「この方に定期的な往診が必要とは思えない」「そんな申し入れは常識的でない気がします」と私は断った。

朝日健二さんは気分を害される風もなかったが、ゆっくり口を開いた。

「それは先生の見識として尊重します。往診できない先生の条件もあるのでしょう。

しかし、ごく最近変わった法律では、痴呆があって、自力で受診できない高齢者には、定期的な訪問診療ができるようになったのですよ。

母はああ見えても痴呆が進んでいて一人で受診はできないし、日中はいつも一人なのです」

あくまで淡々とした口ぶりだった。あとから気付いたのだが、当時朝日さんは東京保険医協会の事務局次長をしていたのだった。

目からうろこが落ちるとはこのことで、1990年台における在宅医療の重要性や、可能性が、朝日健二さんの一言で一瞬のうちに理解できた。

見渡してみると、地域には一人で受診できない人はたくさんいた。その人たちが特に援助が必要な人とは気付かれずに放置されていたのだ。面倒を見る家族の苦労も気付いてみれば大きかった。

そういう人たちを見つければ積極的に訪問診察することにした。訪問看護も当然必要だった。こうして地域医療のなかでの診療所の役割も明確に見えてきた。常時20人も訪問診療する患者さんがいるようになって、経営もずいぶん改善した。

訪問診療や訪問看護に行く件数がさらに増えそうなので、もっと本格的にやっていこうと考えて、訪問看護ステーションとディケアを作ることにした。

訪問看護ステーション開設に小野田市医師会の快諾を得た。しかし、その直後に、なぜか小野田市の肝いりで医師会立のステーションが作られることになった。あっけにとられながら、やむをえずそちらに協力して見送ることにした。

ディケアは、設立基準ぎりぎりで作ったので、間違いなく日本一小さな規模のディケアとしてスタートした。このディケアの特徴は、なにより、全面的に地域住民のボランティアに依拠したことである。ディケアの昼ごはんは、材料まで持って組合員さんが作りに来てくれた。地域そのものが運営したディケアと言ってよかった。

しかし、その後、小野田市にも、コムスンを初めとする営利的な介護事業所がたくさんできた。このディケアに来る人が激減した。 粗末な施設だから仕方なかった。

ディケアの赤字が膨れ上がっていったが、まさにその時、2006年に介護保険が大改悪された。「介護の社会化」の旗印は地に投げ捨てられ、踏みにじられる状況が出現した。

貧富の格差が、そのまま介護の格差に直結するようになった。

そういう情勢は、大変な困難に直面した高齢者層にきちんと介護を保障する私達の役割というものを改めて見直す機会になった。

そこで、今度こそ私達独自のものである訪問介護ステーションを立ち上げた。行政からの介入・妨害はもはやなかった。あわせて、古いディケアをやめて、新しい建物でのディサービスも始めた。

これが医療・介護をめぐる逆流に正面から立ち向かう私たちの闘いの具体化だった。

以上が私から見た、この小さな診療所の30年の歴史である。

30年後、私が元気でいるかどうかはわからないが、この診療所がどう変わっていくものか見届けてみたい気はする。



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