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2008年12月11日 (木)

「『生きづらさ』の臨界  ‘溜め’のある社会へ」河添誠・湯浅誠×後藤道夫・中西新太郎・本田由紀、 旬報社2008・・・キーパースンとしてのアマルティア・セン

一読して胸が熱くなりすぎたので、無駄話から始めたほうがいいだろう。

この本の書評を見たのは12月7日(日曜日)の新聞だった。

湯浅誠さんは全日本民医連の理事会で講演を聴いたことがあり、河添誠さんは、山口市で小森陽一講演会があった同じ日に宇部市に来ていたので、話が聞けず残念な思いをした。

後藤道夫さんは、主催者側で講演を依頼したことが3回くらいある。講演が終わったあと小郡駅前の居酒屋で「運動家が研究者に、どう運動したらよいかを訊くのか?それはないだろう」と意地悪なことを言われたが、それはその直前、彼が勤める大学を私の無知から「ふぞろいのりんご」に出てくるような大学扱いしたからである。「うちの学生はそんなレベルじゃないよ、みんな大企業に就職しているよ」と不機嫌な声で言われた。そういえば、そのとき、東京で非正規労働者の組織を始めている若者がいるので、教員仲間でカンパして100万単位の金を作って援助しなくてはならない、と呟くように言われていたのだった。その男が優秀な奴で・・・というのが湯浅さんだったのだろうか?

そういうメンバーが名前をそろえている本なので、その夜アマゾンに注文すると、9日には本が来て10日の夜には読み終えることができた。こういう便利さは流通業界の労働者の大きな犠牲の上に成り立っているのだが、よい本が容易に普及されていくことは、その犠牲を跳ね返す力にもなるので、物事の良し悪しは簡単には論じられない。

閑話休題(=それはさておいて)、2008年6月8日、派遣労働者Kは秋葉原で通行人を無差別に殺傷した。彼は日研総業という大手の派遣会社に雇われ、トヨタ系列の関東自動車工業に、2008年4月から1年間の契約で派遣されていたのだが、わずか2ヵ月後に、当月6月末の打ち切りを通告されて「キレ」た。労働市場での長い漂流生活の孤独感が『臨界』に達したのだった。

その後、この事件はさまざまに論じられたが、秋葉原の繁華街で通行人を無差別に殺傷した犯人が果たしてKひとりだとして済ましていいのかどうかが怪しくなった。

真犯人は他にいて、たとえば「派遣切りは派遣会社がやっていることでメーカーの会長である私には関係ない」などと発言している人物であることが、未曾有の金融危機で社会全体を覆われてきた今になってみれば、誰の目にも明らかである。

そして、年間3万人を超える自殺者、そのうち少なくとも1万人は経済的理由によるのだが、それは正しくは自殺などではなく、同じ犯人による殺人事件だと考えるほうが妥当である。

大げさなことを言っているのではない。

ニューヨークのハーレム地区の黒人の多くが40歳にならずに死ぬのが普通だとしたら、彼らは殺されているとしか言いようがないではないか。

誰が誰を殺しているのか?それを見据えながら、一人一人が殺されないような対策も緊急に必要だ。簡単に言えば、これが私の感想である。

湯浅氏は、社会的告発のみに傾きがちな労働運動と、個人のケアのみに埋没しそうな福祉運動とを融合させて、新しい運動を作っていきたいと言っているが、それは民医連がずっと追求してきたことでもある。

しかし、自分たちもまさにそういうことをしてきたが、何か足りないもの、いまの現実から掬い上げ損ねてるものがあったと、湯浅氏たちから民医連が気付かせられてもいるのである。

旧来の諸運動の否定ではなく、それに依拠し励ましながら、この時点で必要な別の視点、別の枠組みを提示することが、運動の発展には絶えず必要である。

それを彼らはやろうとしている。そして、そういう視点を獲得した人にしか気付くことのできない分野があり、その仕事を鮮やかにこなして見せることで、彼らは私たちに運動の新しい発展方向を示唆してくれているのである。

ところで、この小さな本にも、私が比較的ゆっくり読んでいるマイケル・マーモット「格差症候群」でも登場する共通のキーパースンがいることに気付いた。

それはアマルティア・センである。

同じキーパースンの名前が語られ、そこに微塵も個人崇拝の気配がないとすれば、それは世界中で多くの人が同じ痛み、同じ問題意識を持って生きているということの証明である。

「希望は連帯」というこの本の最終章のタイトルは真実だ。

*大仏次郎論壇賞を受賞した岩波新書「反貧困」湯浅誠、2008を私から借りて読んでいる長男が「溜め」というのはなんとも見事な表現だとつくづく感嘆した口調で話した。自分なんかまだまだ「溜め」があるほうだ、感謝しないといけないと。

(長男は小学校のころから学校に行かず、東京で数年不安定な生活を送った。ほとんどホームレス状態の人や、不法滞在にほぼ間違いない中国人青年と一緒に働いていた。その後大検に合格して地元の大学に行き、今年、大学院を卒業できず留年している。)

それはアマルティア・センの「潜在能力」とほぼ同じ概念だと説明すると、そのことは「反貧困」の中にすでに書いてあるという。そうだったかな。記憶がどんどん悪くなっている自分を感じる。

「それにしても、あの本を読むと、死にたくなるんだよね。俺らのような人間は生きていても何もいいことがないような気がして」

「それは逆だろう」

「・・・いろんなことが世界史を勉強していないと、よく理解できない気がする。山川出版の解説書を買って少しづつ読んでいるけど、古代中国史のところで挫折した。事実の羅列ばかりで構造が見えないんだよね」

「歴史を構造的に理解するというのは偉いね。ウォーラーステインなみだ。1500年ごろから、世界全体が資本主義システムという段階に達したといっているんだよ。そう考えると人類が資本主義から抜け出すのにもう数百年はかかるだろう。日本の封建主義制度が出来上がるまでに400年、完熟して崩れるまでに300年かかったみたいに」

「それは面白い。そういう風に世界史を勉強したいもんだ」

「講談社メチエに川北何とかという人が書いた『ウォーラーステイン』というのがある。これが分かりやすいね。池澤夏樹も誉めていた。」

「それは家にある?金がないから本は買えんから。」

「どこかにあるよ」

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