大琳派展(東京国立博物館)に行く途中、ホームレスの人達の行列に出会い、「スピヴァクみずからを語る」岩波書店、2008を買う
11月15日、2泊3日の会議終了後、上野の東京国立博物館に行った。最終日11月16日を翌日に控えた「大琳派展」を見物するためである。この機会を逃すと当分こういう企画にはめぐり合えない。
昨年、京都府保険医協会の行事に参加したとき京都国立博物館に初めて行き、室町時代の漫画や俵屋宗達の風神雷神図を見た。それがとても面白かったので、今回、俵屋宗達―尾形光琳―酒井抱一・鈴木其一(きいつ)とそれぞれ100年の時間を隔てた4人の風神雷神図が一挙に展示してあるという点に興味を持って出かけたのだった。
私が入るときは10分待ちだったのに、出る時は40分待ちになっており、ますます増えていくようだった。したがって、中の混雑も大変で、落ち着いて鑑賞と言う雰囲気には遠かった。しかし、琳派が、狩野派などのような権力的な流派でなく、ほぼ純粋に個人の指向によって時代を超えて形成されたものだということはよく理解できた。頼朝から家康まで400年かかった封建革命が終わったあと、250年は続いた江戸封建社会の安定と成熟が驚くべきものに思えた。光琳の弟の尾形乾山の作風も面白く思えた。私たちの趣味のかなりの部分はまだ琳派によっているのだろう。。
しかし、この日の午後は私にとっては、また別のことを考えさせられる半日でもあった。公園の紅葉を楽しみながら、博物館に向かっていると、長い行列がある。その先頭は屋台のようだったので、妙な食べ物が流行しているのだろうという程度の気持ちで傍を歩いていった。すぐに分かったのだが、それは、屋台の食べ物を買う行列ではなく、ホームレスの人が炊き出しを受け取る長い列だったのである。
すぐに役に立つわけではない江戸時代の美術を見るための行列から、2.300mを隔てて、今、それを受け取らなくては生きていけない粗末な炊き出しの食物をもらう人の行列が、ほぼ同じくらいの長さで同時に存在したのだった。
博物館から帰るときは、その行列は消え、なにか宗教的な説教を聴く大きな群れができていた。金切り声の演説を遠くに聞きながら、私自身が、貧困と格差を問題にしてあれこれ語りながら、ホームレス問題に全く関わってこなかったのはなぜか考えた。恥ずかしいことだが、「ビッグイシュー」を300円で買う時以外にはホームレス状態の人と会話したことが無かったのである。もちろん、地方都市に住んでいるという事情はあるのだが、触れようと思えば触れることが出来た課題である。なぜ、見えない振りをしてこれまで過ごしてきたのだろう?
空港に行く前、書店でスピヴァクの比較的読みやすいインタビュー集「スピヴァクみずからを語る」岩波書店、2008を買った。飛行機の中でそれを読めば、何かしら答やヒントがあるように思えたからである。
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