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2008年10月20日 (月)

柄谷行人「定本近代文学の起源」岩波現代文庫、2008と「文学界」2008年10月号「蟹工船」をめぐる座談会

岐阜大学の竹内章朗さんが岩波新書を書いたという偽情報のため書店で時間を無駄遣いしてしまった。どの新書の一覧を見ても竹内さんの名前がないので、あきらめて、新刊の柄谷行人「定本近代文学の起源」岩波現代文庫、2008を買って帰った。

立ち読みしながら「東洋(オリエント)」という概念は、西洋中心主義に抵抗する人々がなければ生まれなかったという一節を読んで、なるべく全部を早く読むことに決めたのである。

「オリエント」は西洋が東洋を支配し、自らの優越を確認するために作り上げた幻の体系に過ぎないと考えたのはサイードだが、サイードのような抵抗者がいなければ、幻としての「東洋(オリエント)」を発見するものがいなかったというのは、サイードの考えを一歩前に進めたものだろう。

その次の日、別の用事で別の書店にいき、表紙に柄谷行人と「蟹工船」の名を見て「文学界」2008年10月号を買った。

「『蟹工船』では文学は復活しない」という標題の柄谷、黒井千次、津島祐子の3人の対談が今月号の目玉記事らしい。

ざっと読んだが、ぴったり来ない。黒井の老人論の本が褒められているのよい。しかし、いま『蟹工船』を読んでいるのは、非正規労働で貧困にあえいでいる人たちで、彼らは作品に共感しこそすれ、別に「文学を復活」させたいと思っているわけではない。「蟹工船」と同じ手法で小説を書こうという動きや主張がはどこにあるというのだろう。したがって標題のような主張は全く的外れである。(小林多喜二自身が「蟹工船」の弱点について十分批判され、自覚していたし、それを克服する道を必死に探していたのである。彼は、若くして虐殺され大成することはなかったが、最後の作品群さえ「蟹工船」を大きく乗り超えている。)

繰り返しになるが、「蟹工船」が読まれているという現象から、青年の間に文学志向が生まれてきていると主張する論者を空想して、そんな期待は意味がないといったり、「蟹工船」と同じ手法の小説を作ろうとする書き手がいると空想して、その書き手を嘲笑するというのは、いかがなものだろうか。結局、貧困との闘い自体を嘲笑するものではないだろうか。

結局、この標題は誰に向かっていっているのか分からない。

それに、もう使われなくなった「ニート」などという言葉を平気で使っているのも勉強不足だなぁと思う。 

ただし、柄谷自身が適切に指摘しているように、「蟹工船」に描かれたような労働状態は消えてしまったものでなく、日本の高度経済成長にともなって日本から東南アジアに移って、経済のグローバル化とともに日本に再び戻ってきただけなのである。これは、再現されることは許されないという道徳的判断を下しておしまいというようなものでもありえないというのは正しいだろう。

したがって「蟹工船」的労働状態を主題にした文学はいまこそ書かれなくてはならない。そういう意味では「蟹工船」は、現代的姿に生まれ変わって文学の素材を与えている。実際に多くの作品が非正規労働者の苦難や不満を取り上げているのではないか。そこに新しい「政治小説」の誕生は準備されているのではないか。故野上弥生子、故堀田善衛、故小田実や大江健三郎や李恢成や池澤夏樹、その中に黒井千次を加えてもいいが、その人たちが書きついで来た政治小説のその先に、グローバル化の中の貧困を見据えた政治小説は確かに予感されるのである。

「日本の小説家は、社会問題や政治に疎い、自分の意見を持たない情けない連中だ」と3人が指摘するのはいい。まったくその通りなのだろう。黒井と柄谷が経済学を学んだのでしっかりした小説が書けたり、文芸批評ができるというのもおおいに結構である。

だとすれば、自分たちの座談会に、表紙に書かれたような標題を付けられてしまうことに、この3人はどうして異論を唱えないのか?

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