井上ひさし「ボローニャ紀行」~映画「火垂るの墓」
協同組合について書かれた部分が多いので読むとよいと友人から言われて、井上ひさし「ボローニャ紀行」文芸春秋社2008.3を借りて読んだ。読みやすい本なので1日で読むことができた。 現在のイタリア憲法は日本国憲法と同じ頃に制定されたものでよく似ているが、多様な協同組合設立を支援することが具体的に書き込まれていて、これが地方の発展に著しく貢献している点はかなり違っている。その点は、今後の地域づくり、町づくりを考えていく上で大いに参考になった。 ソ連盲従を批判してイタリア共産党を除名された青年が、仕事を求めて古い映画を修理する協同組合を作り、それがいまや世界の文化財的映画の修復センターになってボローニャの名を高めている話は特に面白い。 つい最近まで中道左派政権の首相だったプローディがボローニャ大学教授だったことも思いだしたが、この本全体が、プローディの政敵であり、ヤクザが政治家になった場合の典型例といっていいベルルスコーニ(実際に殺人罪の疑いさえある男である)の批判で満ちている。 そこで、この本を読み終えた後には、これまで放置してきたアントニオ・ネグリ「未来派左翼」日本放送出版協会2008を改めて読み始めてみようかという気になった。この本もベルルスコーニ等の輩が何度も政権を握るイタリア社会への問題意識から発想された本であるようだからである。訳が悪いのか、ネグリの言っていることが支離滅裂なのか、どちらかが原因で一読して理解しにくい本であるのだが、読む気になったときは読まなくてはならない。それについては数日のちに触れることができると思う。 「ボローニャ紀行」を読み終えた頃、台風13号の動きを気にしながら、月一度の東京での会議に出かけた。 「10月3日解散、26日総選挙」という朝日新聞の予想が伝えられたなか、あわただしい雰囲気の会議だった。後期高齢者医療制度廃止をその選挙でどう実現するか、社会保障費毎年2200億円抑制をどう終わらせるかがかかっている重大な選挙だから、これは無理もない。そういうわけで会議はいつになく速く終わった。早く山口に帰ろうかと思ったが、飛行機の予約が変更できない。 仕方がないので岩波ホールで映画を見ることにした。折からの台風通過で蒸し暑かったので、歩いていけば15分のところを、ほぼ同じ時間をかけてJRと地下鉄を乗り継いで行った。実写版の「火垂るの墓」。最終日に近いせいか観客も少ない。 悪くなかった。とくに三ノ宮駅で少年が餓死するシーンを描かず、倒れていた畑の中から起き上がって街に向かうラストは、もしかすると生き残ることができたかもしれないという期待を残していた。少年の無惨な死を冒頭に描いたアニメ版の先行を前提に、この変更は好ましい。 ところで、「一般的な観客」というものはいないということを改めて映画館の暗い中で感じた。映画にしても小説にしても、誰も白紙では臨まない。それぞれの人が、それぞれの条件の中でその作品に向かい合っているのである。その差異はきわめて大きい。これは別に作品だけではなく、病院でも学校でも、いや、誰かと誰かが向かい合う日常生活の全ての場面でもいえることだろう。「一般的な患者・医師、生徒・教師、客・店員の組み合わせ」なんてないのである。私たちの仕事の場合、その一部を転移・逆転移と呼び習わしているのであるが。 さて、私がそんなことを思ったのは、この映画を見ていて、すでに死んでしまった人にもう一度会いたいと願ったり想像したりすることが、人には許されているのだ、とつい考えてしまったからである。実は、死んだ人にもう一度会えればと考えることなど、私にはこれまで思いもよらなかったのだ。映画の本筋とはまったく無関係なことに考えが広がりながら、静かな闇の中に私はいた。もし会えたら何を言おうかと考えると少し感情の抑制が効かなくなった。そばに他の観客がいれば、映画に感動していると思ってくれたことだろう。 | ||||||
|
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 雑誌 現代思想 6月号(2016.06.04)
- 内田 樹「街場のメディア論」光文社新書2010年(2016.05.11)
- 「『生存』の東北史 歴史から問う3・11」大月書店2013年(2016.05.10)
- デヴィッド・ハーヴェイ「『資本論』入門 第2巻・第3巻」作品社2016/3 序章(2016.05.04)
- 柄谷行人 「憲法の無意識」岩波新書2016/4/20(2016.05.02)
コメント