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2008年8月 6日 (水)

坂田雅子監督映画「花はどこへ行った」から考える医療倫理問題

坂田雅子監督映画「花はどこへ行った」を最終日に岩波ホールで見た話は、しばらく前「会議のない出張2」で書いた。

坂田監督は、米国人の報道写真家でベトナム従軍歴がある夫が50歳代の若さで肝癌死した原因をベトナムで曝露した枯葉剤によると考え、ベトナムに出かけて枯葉剤の影響が現在のベトナム住民にどのようにあらわれているか記録した。それがこの映画である。

映画には、私たちにもなじみの深いべト君ドク君の主治医だった女医さん、ツーズー病院の院長であるグエン・ティ・ゴック・フォン博士も登場する。

多くの奇形児の標本を背景にして、《今の自分の仕事は超音波で奇形児を早期に見つけ中絶に努めることだ、そうして社会の負担を軽くしようと考えている》とその女医さんが話した。

これを見ていたときの私の感慨が今日の主題である。

あのとき、それは日本の障害者の人たちには受け入れられないことだろうとも思いながら、ベトナムのような貧しい国では仕方がないことかもしれないと思ったのである。

それでよかったのかという思いは今も続いている。

一方、先進国である日本の終末期医療の医療倫理のあり方を考えると、二つの極がある様に見える。

一つは日本尊厳死協会である。この会の究極の主張は、オランダのような自殺幇助の合法化だろう。死ぬことも自己決定権の範囲のなかにあり、医療はその権利の行使に協力する義務がある、というわけである。

反対の極にあるのはALSなどの患者会である。尊厳死の法制化がなされたとき、弱者排除の滑り坂理論が社会に働きはじめ、結局、ALSの患者は人工呼吸器利用の放棄を自己決定の名目で社会的に強制され、尊厳死という名の他殺が横行する。これが、健康弱者から見た尊厳死法制化後の社会像である。

その中間にさまざまな主張や提案がある。

たとえば、いったん始めた人工呼吸は絶対に中止できないが、最初から人工呼吸しないことは、患者の事前の指定があったり、患者家族の納得があれば可能だ、という、多くの病院がとっている立場。

・・・・そういうものだろうか?二つの間に本質的差はないだろう。これは、射水市民病院のように殺人罪で書類送検される事態を回避するという、病院管理者の処世術に過ぎない気がする。

では、治療の中止は、やはり患者の自己決定に基づく患者の権利と言い切れるのか?患者が希望しさえすれば死期を早めることは可能だというわけでもないだろう。

そのとき、医師にとってはもはや有用な治療が存在しない状態であること、すなわち治療義務の限界を超えている判断が必要なのだろう。

治療義務の限界内では治療中止はありえないという立場からは、積極的な安楽死や、必要な人工呼吸器装着を患者があきらめることは全くありえない話である。

そこで、これは私の思いつきのようなものだが、患者の自己決定と、医師側から見た治療義務限界という二つの軸を直交させて、4つの象限を作って考えてみる。

①治療義務限界内にあり、患者も治療を望んで治療が進む象限、(ごく普通の治療風景)

②治療義務限界内にあるが、患者が治療を希望せず、結果として受診もない象限、(医師はその患者の存在に気付かないことも多い)

③治療義務限界を超えているが、患者が治療続行を望む象限、(新たな治療義務限界の枠組みを見出す可能性がふくらむやりがいのある状態、一方、不必要な濃厚治療という心無い非難も飛んでくる)

④治療義務限界を超え、患者も治療を希望しない象限、将来的には治療中止も合法化されるかもしれない部分

である。技術革新や、緩和ケア、患者の精神的サポートの充実が①の象限を大きくし、④の象限を小さくする。その方向に軸を移動させるよう努力することが医療者の義務であり、これが自己決定尊重の前提になる。

そして、治療義務限界が本当の限界になっているのかどうか、患者の自己決定が本当の決定になっているのかどうかは、手続きの問題だけではなく、大きくは社会保障・医療保障のレベルで決定されるのだと思う。

貧しく身寄りのすくない人は、安易に治療中止される可能性が大きく存在している。このとき①の象限はぐっと狭まり、④の象限が拡大される方向に直交する軸全体が動いている。

医療費削減を目的とした政策もその軸移動を引き起こす。今回の後期高齢者終末期相談支援料がその典型である。これは先進国日本が、開発途上国ベトナムに近づくことである。

この話を聞いてくれた開業医のW先生は「急性期病院の在院日数短縮がひたすら追求されている中で、政府・日本医師会が提唱する『緩和ケア』は、治療義務限界縮小の隠れみのに過ぎませんよ」と言い切った。「その証拠に、お手軽な麻薬の使い方ばかりが教育されて、精神的苦痛に対するケアはほとんどないし、人工呼吸器の短期使用さえもどれだけ病院都合で見合わされているか、私は実情をいやというほど知っている

問題の一つは医療倫理関連の学会が、後期高齢者医療制度に敏感に対応していないことでもある。関連学会のこの件に関する声明はなかったように思う。学会は秋に開かれるので間に合わないという奇妙な言訳もあるようだが。

私個人としては、もっとも弱い者の立場からこれらの議論に加わり、決して老人医療費の削減という政策的対場から終末期医療のあり方を考えていく立場には立つまいと思う。

しかし、あの映画を見ているとき、生死に関わる判断が国によって違ってはならないと思う自分と、ベトナムで医師としての極限の努力をしてきた女医さんがあのように語るのを聞いてうなずく自分の双方がいたことは否定できない。

当分、この問題を考えていきたい。

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