じん肺 と にせ宮本常一
私が治療しているじん肺患者さんは100人以上になる。
偶然始めたその仕事が10年近くなったある日、ふと気付いた。
患者さんが、なぜトンネル工事、造船業、家屋解体業など、危険で身体機能を障害することが確実な職業を選んだのか、ということを聞き取っておかなければ、じん肺医療をしているとはいえないのではないのか?
仕事を始めたきっかけは?
という簡単な質問に、ほとんどの患者さんが、意外な雄弁さで応えてくれた。
時間が長くなりすぎて、診察時間の調整に困るほどだった。
今回は、その中で、印象的だった数人分を掲載しておく。
なお番号は、私の記憶のためのもの。
34: 昭和7年生まれ。大分県佐伯市かまど地区の出身。豊後水道に面したところだった。
家には刀や武家の使う駕籠があった。祖先はお城づとめだったらしい。父親がそれを全部海に棄てた。
父親は出稼ぎに出て、40年くらいトンネル掘りをして体を壊して死んだ。元は軍医で、みんなから「軍医さん」と呼ばれていた医者が往診に来て、胸から水をとったら赤く濁っていた。いま思えばきっとじん肺だったのだろう。
かまど地区自体が出稼ぎが多いところで、いまもじん肺になった人が多く暮らしている。
佐伯には海軍の航空基地があり、戦時中は一緒に暮らしていた。空襲があると一緒の防空壕に入ったものだ。
自分は子供の頃から豊後水道で漁師をしていて、後に1年ほど佐伯市内で魚屋をした。そのころ友人から、トンネル工事のほうが収入がよいと誘われて、トンネル工事に入るようになって、その後はずっとトンネル工事で全国を渡り歩いた。
この仕事をしたらじん肺になるなどとは誰も教えてくれなかった。
19歳だったが、最初の工事現場は、宇部ですよ。
東見初の海底炭坑の坑道作りだった。
戦時中は戦争捕虜がしていた仕事を引き継いだもので、エレベーターで海底に降り、電車に乗ったあと、さらに坑道を1時間歩いて、掘進の先端にたどり着いて仕事をした。電車が通る大きい坑道を海の先に延ばすトンネル工事だった。暑くてたまらなかった。
坑道を走る電車といっても地下鉄のようなしゃれたものではない。形はただのトロッコだ。
これが終わって、行った先は数が知れない。
現住所の防府市徳地に住み着いたのは、結婚相手の親戚の養子に入ったから。自分はもともとは「佐藤」という姓だった。
30:福岡県筑紫郡の生まれ。父も筑豊炭坑の炭坑夫だった。父は途中から芝居に入れ込んで、戦後まもなくのことだったが、小野田の「須恵座」という芝居小屋に就職しようとした。しかし、家族もちだったので断られて、一家で小野田駅構内に1週間野宿した。自分が15歳頃だったと思う。拾われるように厚狭の炭坑で働くようになり、それからずっと炭坑夫をして暮らした。そうして小野田に住み着いた。閉山後は、産業廃棄物の処理に当たった。これも体によくない仕事だった。
28:大阪生まれ。戦前、父親が造船所の下請けに入っていたので、兄弟みんな造船所で働いた。
戦後は船を作る仕事がなくて軍艦の解体ばかりしていた。駆逐艦や空母、潜水艦。
軍艦は鉄板の上に亜鉛を張っていたが、鉄板を炎で切って行くとき亜鉛の蒸気が出て、肺をやられることが多かった。
10万トン規模のタンカーを作る笠戸ドック(下松)の下請けとして宇部ドックができたとき、宇部に移ってきた。実際の仕事は宇部鉄工所で船のブロックを組み立てることだった。これで宇部にいついて家族もでき、家も建てた。
しかし、まもなく笠戸ドックが縮小して、受注のない宇部ドックは閉鎖になった。
その後は家族を残して、鳥取県の境港造船に行った。ここでの仕事は漁船の修理ばかりだった。新造船などはほとんどなかった。これが19年続いたので、建てたばかりの家にはほとんどいなかった。
職人のとりまとめ役だったので宇部ドックの労働者はほとんど全部知っている
22:出身は尾道。実家は農業。長男が継いでいる。自分は次男だったので、尋常高等小学校を出て働きに出た。
ちょうど終戦の年に学校を卒業して、初めて職に就いたのは呉市の海軍工廠。ここで溶接を覚えた。
広島に原爆が落ちた時には、光を感じた。最初は溶接の光かと思ったが、山の向こうに大きな雲が上がって爆弾と分かった。夕方には負傷者がどんどん入ってきた。
当時は空襲もすごかった。
それから、家具職人になり、船の内装をする工務店に就職した。それからずっと造船所に入って、アスベストをたくさん扱うことになった。
25歳のとき、工務店の下関支店に転勤し、彦島の造船所で働いた。結婚して下関に住み着くことになった。
20: 生まれは宮崎県で延岡市の近所。
半農半漁の村で家を継ぐのは長男と決まっていた。
自分は次男で、中学を出たらすぐに型枠大工になった。
父親は石船を持っており、延岡の港湾工事で働いており中学時代に手伝った。
・・・(山田洋次の映画「故郷」にも瀬戸内海の埋め立てで働く石舟に乗る夫婦が描かれていましたね、石を下ろすとき、ざっと傾いて転覆しそうになる)・・・そうですか、映画はあまり見ないから。
でも石を下ろすときはまったくそのとおりですよ。
型枠大工の仕事をしている会社がトンネル工事も請け負っていて、建築工事のないときトンネルに回され、収入も良かったのでそのままずっとトンネルに入るようになった。火薬取り扱いの免許はその後取得した。
ずっとトンネル工事をやって、妻の実家のある周南市にいついたわけです。
宮崎から出稼ぎに出る人はやたら多かった。地元には仕事がないからねぇ。
宮崎には兄夫婦がいるので数年に一回は帰る。
19:
萩市郊外の奈古地区に「日本耐火」のレンガ工場があり、そこに指導に来ていた築炉師の人に誘われて、15歳のときに北九州・八幡の黒崎窯業の子会社「黒崎築炉」に入った。奈古の工場は今はつぶれた。
レンガで炉を築いて、その炉でレンガを焼くから、レンガ工場には必ず築炉師がいる。
レンガで炉を造っては壊すの繰り返しだから、吸入する粉塵も多いし、アスベスト曝露も多い。
同じ中学校から10人くらいその会社に行き、大半がじん肺になった。死んだものはいない。自殺した人はいたが、それが病苦によるものかどうかは分からない。
築炉の仕事をずっと続け、最後は岡山に行った。
岡山から姫路にかけては小規模のレンガ工場がものすごくたくさんあり、じん肺の人が多数いますよ。岡山ー姫路間の新幹線の窓から、レンガ工場がたくさん見えるでしょう?
岡山にはじん肺に詳しい先生もたくさんいて岸○先生の講演会に行って話を聞いたことがある。
| 固定リンク
コメント