「資本の帝国」エレン・メイクシンズ・ウッド
ようやく「資本の帝国」エレン・メイクシンズ・ウッド、紀伊国屋書店、2004を読んだ。
ほぼ同時に大江健三郎の小説「燃え上がる緑の木」と「臈たしアナベル・リィ 総毛立ちつ身まかりつ」を読んでいたので、かなり長い間、この本を持って歩くことになった。おかげせっかくのきれいな装丁の本2冊がぼろぼろになってしまったのは残念なことだった。
エレン・メイクシンズ・ウッドは今年で66歳になるカナダ在住の女性政治学者である。
以下に感想文的に、私なりの要約を記録しておこう。
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アメリカは史上初の資本主義の帝国として、権力の主体を資本と国家に分離することを通じて、世界を支配するスタイルを作り上げた。
資本の権力は、国家権力と分離することで、身軽に全世界の隅々まで市場の命令を発することができるようになり、資本主義は世界に普遍的なものとなったが、それ自体で市場の命令を貫徹する力が十分なわけではない。
世界に市場の命令を強制するには、経済外の力、簡単に言えば軍事力が必要であり、それを作り出せるのは国家の権力しかない。資本の権力は国家の権力から、一時的に分離することはできても、本質的に国家の権力なしには存在しえないのである。
しかし、アメリカ国家は国境を越えて世界中に出向き、直接に資本権力を応援することはしない。17世紀のオランダ帝国(フェルメールの絵画もその富の成果である)や19世紀のイギリス帝国の時代と違って、世界はすでに国民国家の集合として構成されているから直接支配はありえないからである。また、直接支配によるリスクとコストを負わないことが、アメリカ帝国の新しさの本質だからである。
したがって、アメリカ国家は幾つもの他の国民国家を従属させ、彼らにその国家内でアメリカ資本の発する市場の命令を貫徹する手助けをさせなければならない。
こうしたスタイルの帝国は世界中に資本主義が普遍的になった時代特有のもので、歴史上、アメリカ以外にはなく、イギリス以前の旧帝国とは大きく違うものである。またレーニンやローザ・ルクセンブルグが考えた、世界の非資本主義国を分割して支配する資本主義帝国群とも違うものである。
これまでのマルクス主義帝国主義論はアメリカ帝国問題をまだ解明していないといってよい。
アメリカ帝国の特殊性は帝国の軍事力の使い方に最もよく現れている。唯一の帝国であるアメリカはどの国とも本格的に戦争をする必要はないが、潜在的な競争相手が、競争しようとする気持ちさえなくすような圧倒的な軍事力のデモンストレーションを永続的に続けておく必要がある(*まるで、ゴリラのボスが自らのを誇示するために周囲の木を揺さぶりながら走り回るような)。
そういう意味で、アメリカはソ連との冷戦終了後、世界中を相手にした「終わりなき戦争」に突入したのである。、その戦争の規模は、アメリカの全軍事力からすれば演習レベルに過ぎないが、本質は永続的にその演習を続けざるをえない、途中でやめることはできないということである。
(以上を「アメリカ軍のふるまいは、所詮ボスゴリラのディスプレーに過ぎない」説と名づけておこう)
しかし、資本のグローバルな支配と、それを巨大な軍事力で支える国民国家群という様式はきわめて不安定で、真に民主主義的な経済的・政治的要求による挑戦の前に思いがけぬ脆さを必ず露呈するはずのものである。
そのとき、ネグり/ハートが主張するように各国民国家の役割を終わったものと見なすのは、戦う相手を間違えるというものである。資本の支配がグローバル化すればするほど国民国家による主として軍事的な支えはますます重要性を高めているからである。
したがって、民主主義の闘いは、グローバルであることが求められると同時に、各々の国民国家内での固有な営みを決して軽視してはならず、むしろ主戦場は国内にあると考えるべきなのである。
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これは結局、 よく言われる think globally,act locally ということに決着するといっても良い。
しかし、この本を読む前と後では、こんな手垢にまみれた言葉の意味も違って見える。
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