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2007年11月26日 (月)

「牛乳を注ぐ女」を見た 人間にとって一番大切なのは他人だ

11月24日は医療生協の理事会があり、特に理由はなかったのだが、終わった後、随分気持ちが鬱屈した。

医療生協運動に自分が寄せる期待と、実際の理事会の様子の間に大きな差異があることが本当の原因だろう。とくに、情勢が大きな変わり目に来ているという自覚は強まりながら、議論や計画にはそれを反映させられない自分の実力の解離がもどかしい気がする。

理事会の終了と同時に出張にでて、東京に行く飛行機のなかでは、ずっと大江健三郎の「燃えあがる緑の木」(1994新潮社刊の文庫版1998)を読んでいた。宗教めいた話はごめんだなぁと思いながら、宇宙的な物質運動のほんの一瞬の相に過ぎない生物種のヒトの一生に、何かの意味合いを持たせないではいられない人間の不思議さを考えていた。

ある一瞬から始まり、その後はただ膨張することを基本に変化していくだけの宇宙の時空のなかで、人間の生死などどれほどの意味もない。

無理に宇宙の話を取り出さなくても、たとえば、ほんの1000年前、中米のマヤ族の大規模な戦闘で大きな傷を負い置き去りにされた兵士の目に最後の星空がどう映っていたとしても、また近づく獣の息遣いがどんなに彼を怯えてさせていたとしても、それは私たちにはまったく意味がない。誰の死だって、彼を知ることのない人間には無意味なのである。そして圧倒的に多数の人はお互いを知らずに通り過ぎてしまう。

それなのに、自分の生死の意味を考えることに、すなわちかけがえのないものとして自分の人生の物語を作り、語ることに人間は一生を費やすのである。

だとすれば、そういうものとして自分に割り当てられてしまった生命を生きるしかない、それは受け入れるより他がないものだ、もちろん、ここで飛行機が墜落して突然それが中断しても何も惜しむほどのものではあるまい、などと思いながら羽田に着くと、鬱屈は自然に消えていた。

小説の中で「救い主」と周りから期待される青年が、その役割に格別意味を見出すのでもなく、自分によって少なくとも何事かは始まったのだから、それが成就しようがしまいが、自分のしたことには意味があると語るのとどこか照応した気分だった。

翌25日は、全日本民医連の会議に出た。今期最後の会議で、来期は出ない会議かも知れなかったが、多彩なフィールドワークの必要性と、それが成功したときの若い人たちへの影響などを合意できた気持ちのいい会議になった。

会議が終わると、地下鉄千代田線に乗って乃木坂まで行き、この前行ったときは休館日だった国立新美術館をめざした。黒川紀章設計の巨大な美術館で、目的のフェルメール他のオランダ風俗画展はそのほんの一隅で開かれていたようだった。

一点だけ来ていたフェルメールの milkmaid「牛乳を注ぐ女」は予想通りのすばらしさだった。それほど混雑してもいなかったのでしばらく、絵を見ていることもできた。他の絵にはほとんど感慨がなかった。1点だけ展示するわけにもいかないのであるのだろうぐらいにしか思えなかった。それはきっと大きな誤りであるのだろうけど。

しかし、宇部に帰ってくると、人間の生きたり死んだりすることにはどれほどの意味もないという思いだけが再び強くなってそのまま眠った。

すると、不思議なことに、子供が死んだという夢を見た。

おそらく誰かが私を罰したのだ。

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コメント

先生はあんがい宗教的なのですね。ちょっと意外でした。もっとも、お釈迦様も「魂の医師」と云われるから、りっぱなお医者さまは皆やはりいくぶんかは宗教的なのかも。小生たち団塊世代も残り時間あとわずか。ぜひ真の癒しのある民主的な老人ホームを作ってください。

投稿: Tetu Makino | 2007年11月30日 (金) 05時33分

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