社会保障で幸せになる
もう少し古い話になってしまったが、9月29日に開かれた京都府保険医協会主催のシンポジウム「『やりなおせる国・日本』を創ろうー社会保障基本法をてがかりに」を聞きに京都に出かけた。
(早朝に山口を出て、少し時間が余裕があったので、三十三間堂前の京都国立博物館に寄った。名前から想像するのと違って、まるで中学校の体育館のような粗末な建物だったが、常設展のメインである「風神 雷神図」と、室町時代の妖怪図やこっけいな絵巻物を見て楽しんだ。
水木しげるの描く妖怪の原型がそこにあったし、絵巻物に出てくる人物図は現在の漫画とあまり変わらない。大衆の文化については室町時代と現代が切れ目なく連続しているという印象を持った。)
閑話休題、シンポジウムの会場は、池坊学園のこころホールという、小さなホールだった。演者の表情が手に取るように分かる小ささで、これはこれで面白かった。
シンポジウムで見聞したことの全部を順を追って書くのはやめて、印象を私の中で再構成したことを書きたい。シンポジウムに誘発された私の随想だと受け取っていただければよい。
2007年9月5日首都圏を直撃した台風9号は、多摩川水系の河川敷に住むホームレス900名以上にとって大きな脅威となった。テント村は孤立し、32人がヘリコプターで救助された。3人は救助を拒んで流され死亡した。
問題はここからである。ヘリコプターでのホームレス救助を報道で知った市民からは、ホームレスに税金を使うなという抗議が行政に殺到したというのである。(ネット上でもそのような意見がかなり見られたが、いまは大半が削除されている)
私はこの話から二つ読み取ることがあるように思う。まずホームレスに税金を使うなと抗議した人たちの心情についてである。これは心が貧しいというより、社会保障で自分たちの生活が支えられてはいないという実感の表明だろう。
そしてこのような実感を持つ人は、自らの富が多くの人たちの労苦であがなわれると抽象的に感謝心を持ちやすい富裕層ではなく、自らも日々の生活に苦しみ、援助をも得られないことに絶望している貧困直前層である可能性が高い。
であればこそ、他人が自分の払った税金で救出されることに立腹するわけである。しかし、同じように貧困であっても、自分の生活が社会保障があってこそ初めて成り立っているという、おそらく北欧の住民なら持っているだろう感覚があれば、抗議しようなどという気持ちは起こるはずもないのである。
もう一つは、救助を断って流されていった人たちである。救助されても、それはその場限りのことである。これから何度でも来るだろう台風のたびに同じような恐怖を味わわなければならないとすれば、どうして今、ここで自分の人生に幕を引くのが悪いことだろうと思うのも、私にはよく理解できる。
この二つのことから、私は、社会保障という言葉は存在しても、その実際が、社会に生きる人々になんらの幸福ももたらしていない場合のあまりに多いことに思い至る。
であれば、「社会保障で幸福になる」、というごく簡単なフレーズの圧倒的な魅力と、そのために払わねばならない努力の膨大さに、立ちすくむという気さえしてくるのである。
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