医師の成長についてー 郷地先生の文章を読んでー
月刊保団連8月号「核兵器の脅威ーわれわれは闘う、核兵器がなくなる日まで」特集に兵庫県の郷地秀夫医師の感動的な短文が掲載されている。
郷地先生は30年以上の医師生活の中で1000人以上の被爆者と関わりあい、現在も250人の被爆者の健康管理にあたっている。
その彼にして、被爆者の苦しみとは何か、原爆症とは何かを初めて理解したのは、この4年間の大阪原爆訴訟支援のなかでのことであったとして、裁判支援運動の中で学んだことは「自分のおろかさだった」と鮮烈な言葉を書き記している。
裁判の原告たちの語りに出会うまでは、国の誤った基準、誤った原爆症像に従い、原爆症認定申請の援助を多数断ってきたことに気づかなかったという反省は誠実な人間の痛苦に満ちている。
こうしたことは、原爆症の診療には限らない。
目の前に現れる患者を診療しているだけでは、どんなに良心的な医師でも、制度に潜む論理にからめとられて、医療の仕組みを作った側に操られてしまい、彼らの側の代弁者となってしまうのである。
そういう自然発生性に拝跪した状態から脱して、医師が真に自覚的な存在に成長するには、日常診療の外から来る働きかけが必要である。それは郷地先生にとっては裁判だったのだろう。
しかし、その働きかけは、日常から見れば異質であり、とっさには拒否反応が起こってくるものだろう。その拒否反応を克服するには何が必要なのだろうか。本人の想像力?働きかける側の力?その時代の雰囲気?今すぐには答えられそうにない。
私自身は、広島に生まれて、広島の隣の県で医療に従事して、被爆者手帳を持っている患者さんにはそれなりに遭遇しながら、原爆医療にはまったく携わろうとしなかった。目の前の訴えだけに応じていればそういうことになるのである。外からの働きかけの有無については、なかったといえばうそになる。原爆医療に熱心な医師たちの講演を何度も聴いたし、親しく話もしたのだから。
私がなぜ過去に原爆医療に携わらなかったかには結局答えられない。無意識の拒否はあったのだろう。
しかし、今回は郷地先生の文章が十分な外からの働きかけになったような気がする。
吉野弘の詩に風媒花や虫媒花をテーマにしたものがある*。僕という花にとって、郷地先生の短い文章が風だったのである。
(*「生命は」)
今後は、原爆症医療や訴訟にどう行動を組み立てられるかどうかが問われてくるだろう。
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