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2007年8月15日 (水)

大江健三郎「読む人間」,サイードとバレンボイムの対談「音楽と社会」2004.7みすず書房

大江健三郎「読む人間」2007.7集英社を読んだ。サイードの話を中心にした講義の記録。

NHK教育TVで「ラマラコンサート」のドキュメントを観たことに触発されて私も2ヶ月くらい前にサイードとバレンボイムの対談「音楽と社会」2004.7みすず書房 を読んだが、それにも詳しく言及されていたので面白く読んだ。

(以前、このブログでバレンボイムのイスラエルでの授賞挨拶のことに触れて、「憲法」を引用したということでイスラエルの文化大臣の攻撃を浴びた話を書いたが「憲法」でなく「独立宣言」だったことを、この本で確認した。ブログの便利、かついい加減なところではあるが、さかのぼって訂正しておいた)

しかしもっともひきつけられたのは、あとがきにあたる「私は『読む人間』として生きてきた。」だった。

その中で、長い交際のあるアメリカの文化・政治思想家マサオ・ミヨシに、その著書の中で次のように書かれてしまったというくだり。

「長い間、僕は大江さんとは対話を維持していると考えていました。だが、今やそれは僕の誤りではなかったかと感じ始めています。彼は会話したりはしない。彼は話が好きだし、非常に上手です。しかし、他人の話には耳を傾けないのではないでしょうか。自分では聞いていると思っているかもしれませんが。」

この厳しい「診断」に出会って、大江は改めて次のように語る。

すでに「子供の頃から、自分には一つの根本的な欠落があるのではないかと気付き、(それ相応に苦しみながらも)-よろしい、私はこのような人間として生きよう!と決意し」てやってきたのだと。

そして、どんなに敬愛する人間の話を聞いていても、その人間が以前に書き、こちらが読んだものが頭の中に次々湧いてきて、話をまるっきり聞いていない状態になる、という話も書かれている。

 振り返ると、私にも類似した状態はあり、生涯ついに「傾聴する人間」になれないのではないか、でもそれは仕方がないことか、という反省があったので、「そういう人間は自分以外にもいるのだ」と、感銘を受けたというより記憶に残ることとなった。

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