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2007年5月12日 (土)

特攻兵士は感謝すべき尊い犠牲なのか

改憲手続き法案は残念ながら14日に成立することが確実になった。しかし、憲法記念日のマスコミを眺めていると、9条改憲に反対が国民の多数だという認識が定着しているように見える。安倍首相も従軍慰安婦問題では国内とは真反対の姿勢でアメリカに謝罪させられた。

国民投票を発議しても9条改憲が出来ないということから、発議そのものをあきらめさせる素地はむしろ強まっている。

このため改憲派の焦燥感が目立ってきているような気がする。注意すべきは、テロリスト団体としての側面が表面化していることだ。加藤紘一代議士宅の放火事件はその一例だが、長崎市長射殺事件も実はそうだったのではないか。犯人が「日本会議」に連なるものだったことは明らかだ。また、伊藤一長市長は久間防衛大臣の支持者で、久間氏はイラク戦争はアメリカの誤りだったと明言している。伊藤市長射殺は久間や類似の傾向を持つ保守政治家への警告だと考えて不思議はないのではないか。直接関係はないのかもしれないが、久間防衛大臣はこの事件直後にアメリカ国防省に行き、イージス艦情報流出と自分の発言について釈明させられている。また、日本会議の幹部である安倍首相が犯行当日のコメントでテロに怒りを示さなかったのはそのせいではないか?

こうしたことに関連して、今私が対策を立てないといけないと考えているのは、石原慎太郎が映画を作ったりして高まっている特攻賛美である。

これも改憲派のあせりの現れなのだろうが、「特攻兵士が命をかけて国を守ってくれたから、今の私たちの平和がある。特攻兵士の尊い犠牲には感謝しなければならない」という議論が巷にあふれて、あまり反論されることない。これについては高橋哲哉が「国家と犠牲」NHKブックスでくわしく検討しているが、改めてきちんとした反論がなされなければならないと思う。

特攻兵士が守らされようとしていたのは戦前の国体と、侵略戦争の続行である。「彼らが守ってくれたから今がある」という時の今とは、必然的に「戦前の国体思想と侵略戦争を肯定する勢力が生き残った今」ということである。特攻兵士に感謝すると述べることは戦前の国体に日本を戻そう、侵略戦争を肯定しようということであり、安倍首相の「戦後レジームからの脱却」と軌を一にすることに他ならない。

60年間の平和や経済的な繁栄を「今の日本」といいたいのなら、話は逆である。「特攻戦士に代表されるようなおろかな戦争政策が遂行されたにもかかわらず」今があるのだ。

もちろん、同時代人が戦争で死んだ人達に対し、「なぜ自分でなく彼が死んだのか」と罪責感を持つのも自然だ。たとえば加藤周一氏の戦後の行動の原理の一つはそこにあったはずだ。戦後に生まれたものとしても、戦争による死者に対する哀悼心は戦争について学べば学ぶほど深くなるだろう。しかし、それは靖国に祀られている「国家の犠牲」だけではなくアジア、広島、沖縄を含む戦争死亡者全体に対して寄せられる心であり、そこに「感謝」という言葉が用いられるのは全く妥当でない。

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