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2007年4月11日 (水)

患者は医師の師?

患者さんは全て医師の師であると言われるが、それは患者さんが無自覚に話すことのなかに医師の新しい認識の糸口を与えてくれるものがあるという意味で使われることが多い。師というより、傾聴すべき対象というべきものを、師と呼んで美化しているだけなのだろう。冒頭の言葉には偽善、あるいは独善のにおいがかすかにする。

そうではなくて、その人の立ち居振る舞いに学ぶことが多く、日常診療の会話を通じて医師のほうが励まされ癒されるという、真の意味での医師の師である患者さんは稀にいる。

78歳のSさんはまさにそういう人だった。35年に及ぶトンネル工事従事により両肺の大半はじん肺大結節で占められ、安静時においても4.5L/分という大量の酸素吸入をしないと生活できなかった。私としてもほとんど初めてじん肺症と呼ぶべき進行したじん肺X線像を見た患者さんはSさんだった。しかも、糖尿病や閉塞性動脈硬化症もあり、きわめて不便な生活を強いられていた。そのなかで、じん肺新規発生の根絶を要求する運動に加わり、患者組織の中でも重きをなした。軽い感冒罹患でも呼吸困難は直ちに増悪し、緊急に受診することも多かったが、常に礼儀正しく、忍耐強かった。病院側の不備は多々あったと思えたが、彼が声を荒げる姿はまず想像できなかった。

Sさんは車で1時間かかる隣の市から通院していたが、先週ついに、もはや通院を続ける体力がなくなったので隣の市の適当な医療機関を紹介してほしいと要望した。

私は直ちに県立中央病院の地域連携室と交渉して、じん肺の労災診療を引き受けてくれる医師を探し、紹介状を書いた。

今日、Sさんは紹介状を受け取りに来て、私の診察室に少し顔を出して去っていった。

Sさんが初めて来院したのは12年前だったが、おそらくもう会うことはなくて、遠くない将来その死亡の報を聞くだけなのだろう。なんとなく、自分のじん肺診療もこれで終わりという気がした。

おそらく労働や病気との格闘が一つの人格や思想を作り上げるのである。その形成の様子を私は師と呼ぶのである。

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