日本共産党史を語る【上】 不破哲三
共産党の若手活動家を対象にした講義録だが、すでに中央委員会議長を退いて自由になった著者の個人的体験が色濃く反映されていて、似たような題名の本の中では抜群に面白い。
出張中のホテルの2晩で読み終えてしまった。私も物を知らないほうだから、新しい知識や新しく気づいたこともたくさんあった。以下にノート代わりに羅列しておくことにする。
*は私が気づいたこと
○は不破さんの本に書いてあったこと
*1910年 (明治43年)は大逆事件と朝鮮併合と二つの大事件があった年である。石川啄木はそのどちらにも鋭い反応を示している。
*1917年 ロシア革命→日本のシベリア出兵→米投機→1918 米騒動→宇部で陸軍出動、13人の炭鉱夫射殺→融和策として炭鉱病院設立→後に山口県立医専(軍医養成のため、戦争末期に粗製濫造された多数の医専の一つ)の付属病院として県に寄付
○1922 日本共産党最初の綱領草案作成の中心はブハーリンだった。国内での議論はこのときから2段階革命論と社会主義革命論が対立していた。(ブハーリンは2段階革命論)
○山川主義による解党論と戦った福本和夫の「分離結合論」は、労働組合や無産政党運動など革命的左翼が旧勢力から分離して独自組織をつくり、党がやるべき的活動をこれら各組織が個々に担うというもの。これでは党組織建設という方針は出て来ようがなかった。
しかし、福本主義による党再建時代、民主運動は大きく前進した。
当時の小林多喜二の小説にも労農党や日本労働組合評議会がまるで政党であるかのような活動をし、周囲もそれを当然と思っている様子がありありと描かれている。(*「東倶知安行」がそうだろう。あれは労農党の選挙応援の話だった。)
*福本主義時代に近い状況は今再び出現しているのではないか。情勢論は渡辺治・後藤道夫さんをはじめとした一群の研究者が熱心に探求し、各分野の具体的運動はそれぞれ大きな全国組織が中央機関を持って遂行している。
そういう中で共産党は、議会と外交を担当する専門組織として存在している。担当分野が議会=政治の焦点という点で、どうしても諸運動の中心に位置するわけだが、だからといって運動全体を指導する司令塔であるわけではない。「赤旗」が民主勢力の「協同の機関紙」だと自称しているように、党も諸運動のつくるネットワークの「結節点」という方がふさわしい。
旧ソ連のように大衆組織をもっぱら「伝導ベルト」として使い、党の考えを諸運動の隅々にいきわたらせ、すべての運動を指導するというという考え方はもはやどこにもない。
こう書いてしまうと、階級闘争・革命における国家の、したがって、革命における政党活動の決定的な位置づけを知らない議論だとされたり、世界観の党としての共産党論として根本的に間違っているといわれそうだが、この時点での私の見方として一応書きとどめておきたい。
国家の位置づけにしても、ウォラーステインによると、1848年の3月革命の検討からマルクスは革命における国家(権力)の決定的な役割を発見したのだが、1968年前後の諸事件(チェコ、フランスなど)は革命の主戦場は単純に国家や政党政治でなく、もっと広く深い社会そのものではないかという疑問を多くの人に植えつけたとしている。私の雑感もこれらに影響されているのだろう。
別の言葉で言えば「陣地戦War of Position(グラムシ)の中での政党の役割」というテーマなのだろう。この程度のことでも、もっと本を読み込まないことには少しでも確かなことはいえない気がするが、この文章はメモに過ぎないのでこのままにしておく。
○コミンテルンによる27年テーゼは、福本主義も山川主義と変わることのない解党主義だと批判した。
○「予審では黙秘を貫く、公開法廷では党の立場を擁護して正々堂々と弁論を展開する」という方針は1933年、野呂栄太郎検挙後の、宮本顕治を中心にした指導部が初めて確立した方針だが、それを守ったのは宮本さんだけだった。
○レーニン「共産主義内の左翼小児病」は名著とされてきたが、実は、議会路線否定、世界革命まじか論にレーニン自身が囚われていて、問題が多い著作である。
○しかし、レーニン晩年の著作「ドイツ共産主義者への手紙」1921.8では、ドイツ共産党の弱点である時期尚早の権力奪取をめざす蜂起を戒めて、「どんな場合にも冷静さと忍耐心を失わないで、たゆみなく多数者獲得の道を歩もう」という心を込めた忠告が綴られる。(*この言葉こそが今の僕に必要なものだった。*レーニンのこの文章はレーニン全集第32巻の最後に収録されている。)
○1943のコミンテルン解散は、各国共産党の自主性発揮のためと称されているが、実態は正反対だった。1936年から激しさを増したスターリンの専制・大量弾圧、1939年8月ヒトラーと結んだ不可侵条約(東ヨーロッパの分割占領契約)の完遂のためのものだった。コミンテルンという形式的にも各国共産党が対等な組織は邪魔になったのである。その証拠に、初期は優れた活動家だったコミンテルン書記長ディミトロフ(ブルガリア)は、1939年にはドイツファシズムは敵ではないという文章を書かされ、コミンテルン解散後にはソ連共産党情報部部長というソ連国内の役職に取り込まれてしまった。
○ソ連解体後の翌年1992年に日本共産党は、国崎定洞(東大医学部助教授、留学中にドイツ共産党員になった)、山本懸蔵、杉本良吉が、スターリンの法廷で「国家反逆罪」と判決を下されて、銃殺刑になったという確かな文書回答を得た。とくに山本懸蔵については、野坂参三が二度の手紙で「日本の警察のスパイ容疑がある」という虚偽の証言をしたことが決め手とされた。
○1945年8月の終戦後も治安維持法は継続されており、吉田茂外相は、共産党だけには適用できる形で残すという画策をしていたが、10月4日の占領軍総司令部の覚書は治安維持法の撤廃と、全政治犯の釈放を命令し直ちに実行した。このため当時の内閣は翌日総辞職に追い込まれた。
○その後、徳田球一が共産党の最高指導者になったが、徳田は戦前、福本主義の悪影響を最も強く受けたものとして指導部を追放されたはずの人物だった。
○戦後の政治課題の中心は占領軍の位置づけだった。占領軍はポツダム宣言にしたがって日本国憲法を制定するなど日本の民主化を進める一方で、ごく早期から、反共主義をあらわにしていた。1947年2月1日に予定されていた公務員の待遇改善を求めるゼネストを強権的に中止したのもその現われだった。
○占領軍による民主化が不徹底であった例としては、1946年6月 占領軍+日本政府が憲法制定議会に提案した憲法草案には「国民主権」規定はなかったことがあげられる。国内では日本共産党、国外では連合国・対日政策最高機関「極東委員会」が要求して、ようやく国民主権が書き込まれた。
○1947年12月 共産党第6回大会は「米軍撤退、日本の完全独立」という正しい方針を樹立し、その方針の下、1949年7月 構成員1100万人という戦後最大の統一戦線組織「民主主義擁護同盟」を結成するところまでに至った。1949年1月の総選挙では35議席に大躍進した。
このため、占領軍は共産党つぶしを決意した。
○しかし、その間、党の政治指導の実際は失敗続きだった。
1948年7月のマッカ-サー指令による「公務員の争議行為禁止」に対しては、自然発生的に起こった「職場放棄戦術」を無思慮にもほめたたえ、「虎は野に放たれた」などと評した。このためそれにしたがって職場放棄した党員労働者の多くが解雇されてしまった。
1949年には国鉄、郵便局で共産党員を中心に大量首切りが強行された。これを国民に納得させるため下山事件、三鷹事件、松川事件という謀略事件がでっち上げられ、共産党が犯人だとされた。こういう情勢に対して必要な政治的な闘争は計画されず、地域の要求闘争だけが強調され、党員の多くは地方に出向き、たとえば木曾の山林地主に対する闘争などを始めた。まったくの方向違いだった。
こうした誤りの原因は、第6回大会の正しい方針にもかかわらず、戦前の綱領32年テーゼを戦後も基本方針にしていたところにある。そのためアメリカの占領に反対するという方針を、戦略的課題にしなかった。
党内ではあいも変わらず、半封建的制度と独占資本主義との闘いのどちらの比重が大きくなるかで、革命の性質が民主主義革命か、社会主義革命になるのだなどという戦前型(それ以前)の幼稚な議論が横行していた。
○そして、きわめて本質的な話で、この本の中心テーマだが、50年問題の根本として、スターリンのアジア覇権戦略が日本を襲ってやってくる。
中国革命はコミンテルン=ソ連の指導がうまくいかず、中国共産党の独自の試みのほうが成功したので、スターリンは、当初アジアに対し足場がなかった。しかし、ドイツ・東ヨーロッパでの成功の勢いとさまざまな陰謀的手口を使うことで、ついに中国共産党を副官に従えてアジアに号令をかける立場に立つことに成功した。
その線で、中国共産党の劉少奇は、「植民地・半植民地の解放は武装闘争でなければできない」という「劉少奇テーゼ」をアジアの運動に押し付けさせられることになる。これは劉少奇自身の考えでなく、スターリンの方針だった。
○スターリンは日本共産党もこの武装闘争の方針に従わせることを計画し、まず、1950年1月7日、占領下でも平和革命ができると考えている日本共産党の野坂は間違っていると、発表する(コミンフォルム「論文」)。
これに対して、宮本顕治と志賀はただちにこの意見を正しいと受け入れた。これは占領状態をなくすことがなにより大切だという意味で、平和革命のほうを否定したものではなかった。あとで考えると、この「論文」は平和革命を否定することが目的で、武装闘争方針の押し付けの一環だったが、宮本たちにもその全貌は理解されていなかった。
一方、徳田、野坂らは「論文」に反発し、中央委員の間に深い亀裂が入る。
結局、コミンフォルム「論文」はスターリンの意見であると分かり、日本共産党全体として批判を受け入れざるをえなくなるが、多数派の徳田、野坂派は、宮本たちの排除を決意する。
○それとは独立した動きながら、ほぼ時を同じくして、1950年6月6日占領軍は日本共産党中央委員全員を公職追放する。
これを利用して、徳田、野坂らは決定的に宮本たちを排除した別組織に共産党を変えてしまう。同時にスターリンと連絡を取り合って、一も二もなく、スターリンの真意だった武装闘争方針に転換する。山村工作隊や中核自衛隊というのはこの頃の話である。
武装闘争に賛成しない宮本たちはスターリンから狙い撃ち的攻撃を受ける(コミンフォルム「報道」)。
困った宮本たちはスターリンに連絡をつけるため袴田をモスクワに派遣するが、なんと袴田はすぐにスターリンに盲従してしまい、徳田・野坂と合流する。
1951年にはスターリンが自分で書いた「日本共産党綱領」(51年文書)を押し付ける。同じような綱領は、同じような書き方でインド、西ドイツ、ブラジルに押し付けられている。いずれも、当時の政府は帝国主義者の回し者で、その政府を打ち倒す武装闘争が必要だと書いてある。
○この誤りが是正されるには、結局、1953年のスターリンと徳田の死亡を待たねばならなった。
*こういう指導者の生物的事件が歴史を左右するのはよくあるが、そういうことに翻弄される人間というのはなんと惨めなものだろう。
○1957年、日本共産党は、ソ連や中国に絶対に盲従しないという自主独立路線を確立する。コミンフォルム「論文」をいち早く受け入れた方が、まもなくコミンフォルム「報道」で狙い撃ちされるという奇妙な展開の底に何があったのかという理由もよく分からない中で、正しい方針が樹立された。ごくわずかな情報のなかで、よくあれだけの大きな結論を引き出したものだと今でも思えるほどの快挙だった。
○1960年綱領における、高度に発達した資本主義国でも他の帝国主義国に従属することがあり、その国にも独立という民主主義革命の課題があるという分析は、レーニンによる第1次大戦後のドイツの分析が多いに役立った。これを実証したのは1960年安保だった。
○反封建ではなく、反独占の民主主義革命があることを実証したのは三井三池闘争だった。
○1965年ごろまで、日本共産党には社会科学的な政策活動はなかった。あるのは勘と経験と度胸と、「政府のするのは悪いことに決まっている」という先入観だけだった。その代表は、蜷川民主京都府政下の府会議員寺前巌だった。
○日韓条約1965、安保条約改定1968に際して、条文の一つ一つに即した内容の検討も余り十分でなかった。それまではこの領域も「政府がするのは悪いこと」という感情論レベルでやってきた。条約の正確な吟味も、このころから、ようやく本格的にスタートした。
*カン・サンジュンの日朝・日韓関係論の本を今読んでいるのだが、当時、日韓条約は、少なくとも韓国や在日朝鮮・韓国人にとって大問題であった。彼らが柱と頼む共産党がその程度の状態だったとは、聞いたほうには驚きだろう。
○法案審議においても、政府自民党側の意図だけでその是非を判断しないという原則、反対であっても国民意識によってはよりマイルドな棄権という態度を取ることもあるという議会での姿勢もこのころ確立した。
○政党討論会を企画しながら、共産党を相手にしないというマスコミの態度に、「放映停止」の仮処分申請を行い、出席を勝ち得た。
*しかし、戦前からいろいろ間違いをやってきたことが、この本でも縷々書かれている紺野与次郎さんがその番組に出演したので、不破さんは、「紺野さんが何を発言したかまったく覚えていない」と言い放っている。このあたり、不破さんの人の悪さがにじみ出ていて面白い。
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