「ドイツ共産主義者への手紙」2・・・議論の軸をぶれさせない
引き続き「ドイツ共産主義者への手紙」に関わる感想。
組織における「民主的な運営」の原則は、徹底した討議とそれを前提にした決定の無条件での実行であることは当然だが、私の周りの実際は、不徹底な討議とそのための実行場面における無政府状態である。
むしろ、この無政府状態をこそ個人の尊重すなわち民主的運営と思い込んで尊んできたようでもある。
「聞いてないよ!」「じゃ、仕方ないか・・・」
この情けない状態の改善の鍵はやはり徹底した討議をどう保障するかにかかるわけだが、討議の実際を思い浮かべると、「ドイツ共産主義者への手紙」でレーニンが言っていることが重要だと思えてくる。
原文からかなり離れるが、要は、「議論の軸をぶれさせない」ことが何より重要である。レーニンが批判しているのは、パウル・レヴィなどが、たえず自分に関心を向けさせるために、枝葉末節の発言を繰り返して、議論が進まなかったドイツ統一共産党の討論状態である。
似たような場面は私の周りにもあふれている。おかげで、心残りなく物を言うことが保障されるわずかな数人と、発言の機会のない多数という状態が出現する。
心残りなく発言される内容が議論の軸に沿っているならまだしもだが、きわめて個人的な関心と自己顕示がその中身のほとんどを占めるなら、会議は参加するだけ無駄というものである。そうして決まったことを誰が無条件に実行する気になるだろうか?
いつも議論を本筋から外れさせる質問を乱発する人の頭の中はどうなっているのだろうかと不思議に思う。意外なことを指摘するので感心する場合もまれにはあるが、全く不必要であることが圧倒的に多い。
その発言は、比喩として言えば、場違いな駄洒落である。
―中年が駄洒落に興じることが若い人にはわからないし、駄洒落を聞くことが苦痛のようだ。これを私は、若い人と中年とのユーモア感覚の違いかとも思っていたが、ある人が「その場にいくらふさわしくなくても駄洒落を口にせざるをえないのは、その人の脳のシナプスの結合が壊れて思考経路が混乱しているからだ」と言ったのがずいぶん参考になった。
レーニンは言っている。「パウル・レヴィへの反論に時間を費やすことを止めなければならない。彼は議論を長引かせたがっているだけなのだ。私たちにはしなければならない仕事がたくさんある。」
結局は、議論に責任を持つもの(ある場合には、要するに私か?)の姿勢が第一なのである。
―書き始めた時の意図に反して、決意表明でこの文章は終わることになった。
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