オルセー美術館展
2月4日、特定健診問題検討集会の司会の役目も無事に終わって、いつものように、夕方の飛行機に乗るまでの間は美術館にいた。
今回は東京都美術館のオルセー美術館展を見た。実際にオルセーに行ったことがある人は、まったく海外に出たことのない僕を例外にして、僕の周りにもたくさんいて、H教授などは何を見たかはまったく覚えないで、「大きな駅のような美術館に行ったよ」と言っていた。古い駅を転用したのだからその印象は正しく、まさにそのように日本人にはきわめて近しい美術館だから、東京なんかで開かれた展覧会をわざわざ見に行く人は少ない、静かな時間がそこには流れている、と期待して出かけた。
しかし、現場は人だらけで、何人もの人にぶつかりぶつかりしながら、音声ガイドがあるものだけを何とか見るという状態だった。
美術展に行くといつも思うのだが、絵を前にしてその場で感動するなどということはまずない。本で見たのと変わらない、という感想がまず湧いてくる。セザンヌのサント・ヴィクトアール山にしても、既視感が付きまとう。
(ブリジストン美術館で初めて見た時だけはしばらくそこを動けない気がしたが、これは特別)
しかし、絵を見た感動はどこかに確実に貯蔵されるものらしく、展覧会に行った数日後、数ヶ月後、急にその絵のことが思い出されてくる。
それは、最近見た若沖(じゃくちゅう)の鶏図や、雪舟(せっしゅう)の山水長巻でもそうだった。ゴヤの日傘の娘の絵、フェルメールの手紙を読む女の絵もそうである。
今は診察の合間、急にゴーギャンの自画像があったのが思い出されていたのだが、視覚に頼る記憶というのはそういうものなのかもしれない。
いつのことだったか、母がもうすぐ死ぬ前に、何かの折に悲しそうにした顔がふと思いだされて、急に仕事が進まなくなったことがあった。
*少し日が経って、あれはなんだったろうかと考えるのは、「幻想の世界」に分類されて展示されていたデンマーク人画家ヴィルヘルム・ハンマースホイ Hammershoi の「室内、ストランゲーデ30番地」である。
開いたドアの向こうで、フェルメールの絵に似た窓からの斜光を受けている白いテーブル。何かとても重要な時間がそこで過ぎているような、かけがえのない人が、目には見えないままそこにいるという感覚にとらわれる。
少し調べて、「デンマークのフェルメール」と呼ばれていたことを知った。彼の他の絵も、今回見たものと同じような静謐さを特徴としているようである。→
http://www.hamburger-kunsthalle.de/archiv/seiten/en_hammershoi.html
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