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2006年11月 1日 (水)

医学部で講義:「日常診療特別講義のなかで発見する社会医学的課題」

そろそろ医学部で「日常診療のなかで発見する社会医学的課題」についての特別講義をする日も近づいてきたので、ノートを作り始めることにした。

また、今月は山口県高齢者大会でも特別講演を依頼されているので、その準備もしなければならない。

どちらにしても、「持ち合わせの知識を伝達して終わり」ということにしたくはない。自分の関心の焦点となっていることについて、新たな展望を語りたいと思うのは当然である。

ポリクリの中の学外実習で私の病院に回ってくる学生と話すが、関心領域が私と随分とかけ離れている。

外国人であるサイードやチョムスキーを知らないのはよいとしても、有名な精神科医である中井久夫さんも知らない。大昔に医者だった加藤周一さんぐらいになると受験勉強の国語の例題で読んだことがあるという人が少し現れる。

知識のあるなしはどうでもいいのだが、このことは社会と関わる姿勢の欠如と結びつくような気がして気がかりだ。

そこで、今年は勉強して、スピヴァクのことを講義で少し話したい。

というのは、「医師として社会にどう関わるのか」のヒントが彼女の言葉の中に隠れているという予感がするからである。

もちろん、現在の段階では私にスピヴァクを語る資格がないことは明らかなので(なにしろ初歩的な解説書を読んだだけなのだから)、短時間でも猛勉強しなくてはならないと考えている。

その勉強の後に初めて言えることかもしれないが、おそらくこういうことが言えるということはここで簡単に記録しておこう。許されないことではないだろう。

それはこういうことである。

医学生が主観的に自分をエリートだと思っていようといまいと、社会的生活者としての患者の苦しみを知らないでいる、あるいは知っていても目を背けて済ませていられるなら、やはり特権の中に安住している存在なのである。

そういう特権的な自分の位置を自覚してそこから脱却することを目指す、しかし、それと同時に、「自分は患者の苦しみがすべて理解できる・代弁もできるのだ」というような誇大妄想的なパターナリズムにも陥らない、ということが、どうしたらできるのかを医学生に考えさせたい。

これは結局、「患者とどういう関係性を築けるか、築くべきか」を自分に問い続けることの大切さを知らせたいということになるだろう。

そうすれば、「その関係性こそが医師としての自分」そのものなのだと、どこかで理解することができるだろう。

「医学と社会との関係に注目できる」「医師として社会に関わることができる」あるいは「社会医学的課題を日常診療の中に発見できる」ということは、つまるところ、そういうことではないのだろうか。

それは自分自身の生涯にわたる課題でもある。

自分の言葉でこういうことを語りたいが、残念ながらその実績も実力も、いまのところはない。スピヴァクさんそのほかの先達の肩に乗っかってものがいえるかどうか、それも危ういというのが、今の私の到達点である。

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