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2006年11月19日 (日)

支配者の方法論と、支配に応じる国民の思考・行動形式

前回のことに若干補足。

私たちは、強い伝統の中に生きている。文学研究においても、先行する作品(text)が後発の作品を生むという連鎖があるのみであって、それぞれの作品の作者はその連鎖の乗り物に過ぎないという考え方が現れていると加藤周一さんも言っている。

この考え方は、利己的な遺伝子とその突然変異のみが世界に実在しているのであって、個体は遺伝子の乗り物に過ぎないという、ある種の(流行)生物学の考え方によく似ている。

どちらが先行し、どちらが模倣なのかは分からない。ある時代のある条件のもとで、いろんな人間の脳内に同時発生したのかもしれない。

個人や個体の行動・体験の意義を無視するという点で、それは、おそらく間違いなのだろうが、私たちの考え方が伝統に強く規制され、それを乗り越えることは極めて難しいというのはよく分かる話である。

しかし、時代の転換期の重大な困難は、強力な伝統の規制から離脱することからしか克服できない。

それが伝統から全く切れたところからなされる可能性は否定できない。しかし、伝統の影響を受けていない特別の才能を持つ人間がいて、その人間がたまたま抱いた発想が、都合よく時代の焦眉の問題を解決してくれるというのは、一般的に想定しがたい。

とすれば、伝統を打ち破り伝統から離脱する力は、伝統の精緻な検証の中から生じることを期待したほうがよさそうだということになる。

具体的に言えば、私たちのもっとも大きな疑問、すなわち、支配層から戦争という決定的な困難を背負わされることが確実になってきた国民が、なぜ政府を転覆できないのかという問題は、私たちの社会にそういう伝統があるとしか言いようのない問題だろう。

その伝統を打ち破り脱却するための答えはまだ出ていないのではないか。

国民に働きかけて選挙を通じて変えるという道筋は正しいが、どうしたら国民の心を動かし選挙に勝てるかという新たな質問が出てくるので、それは答えではない。

言いかえれば、〈時代が戦争に向かうという事情が広く知らされていないのではない、確かに宣伝は足りないかもしれないが、たとえ宣伝が行き届いても、それだけでは国民が動かないことが問題だ〉ということである。

このとき、問題になる伝統とは、支配層の支配方法と、それに応じる国民の特殊な思考・行動形式だと考えれば、この伝統を内側から検討することにより答えが出るのではないか。

支配者の方法論は多くは政治学的な検討により一部は文化・文学的検討によってなされ、支配に応じる国民の思考・行動形式は主として文化・文学の検討によってなされるだろう。

ここで文学がその検討に耐えられるものかどうかというと、その保証は必ずしもないのだろうが、私たちを制約する伝統を全体的に取り扱っているのはとりあえず文学しかない。あるいは文学にその伝統はもっとも表現されやすいということもできる。

日本の現状を変えようとすれば、上のことを自覚して日本の内外の文化に触れ、文学作品を読むことが、どうしても必要になってくる。

これが、人生と文学の関係のすべてではないが、関係の主要なモデルとはいえるのではないかと思う。

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