みなしターミナル
11月26日山口県高齢者集会で、高齢者と医療・福祉について講演した。戦争をする国になれば真っ先に障害者と高齢者が社会から排除されていくのだが、これは平時から準備されているものだろう。それを打破し克服する対策が見つかれば、それが戦争を防ぐ最大の保障にもなりうるものだということが私の言いたいことだった。
障害者や高齢者への差別を克服する道については、私自身まだつめ切れていないところがあって、講演が一応終わっても、終わったという感じがしないままでいる。
そういう折の今日、「見なしターミナル」という言葉が、全日本民医連から配られた資料から眼に飛び込んできた。二木立先生の文章だった。 (文化連情報2006.10)
1998年に横内正利さんが初めてこの言葉を使っている。「治療可能な疾病・病態により一時的に状態が悪化した慢性期の高齢患者に対する治療を行なわないこと」を意味する。慢性疾患を持った高齢者の病気が感冒などで悪化したときあえて対処せず、死亡への道を開き、それを自然死に近いと考えるということである。
似たようなものに、千葉大の広井良典氏が1997年に「福祉施設でのターミナルケア」と主張したケースがある。
二木先生が、今の時期に、この言葉を取り上げたのは、医療費抑制の最終的手段として、厚生労働省がこの方向を採用した可能性があるからである。在宅看取り率の大幅アップ、在宅支援診療所の新設とはこのことではないのか?と いうことである。
重症慢性疾患患者の急性増悪を放棄すれば、たしかに医療費削減効果は確実だ。
そのときには、在宅療養を選んだとき、老人施設に入ったとき、さらには老人専用賃貸住宅に入ったときなどは、そのときにターミナル期に入ったとみなされる。
その後の医療はターミナル期の医療であるから、与えられる医療は緩和ケアにとどまる。
したがって今なら病院に入院して簡単に治る肺炎でも、命取りの病気になってしまう。
江戸時代のようなものである。
別の面から見ると、この話はもっと意味がはっきりする。
近未来では、病院といえば急性期病院しかなくて、その急性期病院の大半が7:1の厚い看護基準になっている。肺炎の高齢者がそこしか行き所がないとすれば、医療費はいまよりもっと高騰するのは当然である。
そこはきちんとブロックしておく必要が政府側にはある。
これが政策化されてしまった「みなしターミナル」なのである。
その先、二木先生は国民の高い医療要求からみてこれは困難だと結論付けているが、私にはそうは思えない。 まさにこのまま実行されてしまうのではないか?
教育基本法改悪などを通じて、戦争をする国に向けての世論形成が強められれば、老人や障害者の存在を社会の邪魔者化する思想が社会の主流を占めることになるのは,、最初に述べたように間違いないことである。
そのときはこんなめちゃくちゃな方針が大手を振って世間を横行するというのはもっともありそうなことではないか。
それは少し先というより、もう既に始まっている気がしてならないのは私だけだろうか?
この「みなしターミナル」思想がどれだけ政策として採用されているかどうかを検証すれば、その政策の非人間性について幅広い人の賛同が得られる反撃が可能になるのではなかろうか 。
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