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2006年10月12日 (木)

小熊英二「<民主>と<愛国>」新曜社、2002 

小熊英二「<民主>と<愛国>」新曜社、2002 をようやく読み終えた。高柳先生の「社会保障」誌でのエッセイでこの本を知って以来2ヶ月くらいかかった。

なにしろ958ページもある大著なので、読了に時間を要したが、そう難しい内容ではなく、登場する人物も私の年代にはなじみのある人たちばかりなので、まったく退屈しなかった。

とくに吉本隆明についての記述は爽快といってよいものだった。私が19歳のころの知り合いで、吉本の著書をこれ見よがしに本棚に並べていた経済学部生が高慢ちきな発言を繰り返していたのもつい思い出したりした。また、吉本の主著「言語にとって美とは何か」をバイブルのように持ち上げながら、なんともとらえどころのない、今考えれば自分を誇示するためだけの発言を盛んにしていた体育とロシア語を専門にする助教授がいて、彼に学生相手の小講演を依頼しに行ったときに感じたいらだたしさもはっきりとよみがえってきた。吉本が好きという奴にろくな奴はいなかったことを改めて確認した。

それよりなにより、小熊の広範な資料を丁寧に読み込み、批評対象の内面に立ち入っていく姿勢に羨望を強く覚えたのが、この読書の特徴である。

こちらは昼食も2、3分で食べ、病院内をねずみのように年中走り回って仕事をする身なので、丁寧に文献を読むということ自体に、それが他人のする仕事であるにしろ新鮮な気がしたのである。

読書自体が社会学研究の一つの疑似体験になった。いつかそんな風に仕事ができる身になってみたいという気持ちが、旅行記を読んで旅行した気になる程度には、満足させられた。

そのほかのことで印象に残ったことを一つだけあげておこう。

948ページ(注ばかり集めているところ)に加藤典洋の次のような文章が引用されている。

「ここで竹田は、それまで戦後誰一人いわなかったことをいっている。・・・」

小熊はそのあとの中身を検証して、それがけっして「戦後誰一人いわなかったこと」でもなかったことと、その中身じたいの怪しさを指摘したうえで、加藤はこういう言い方でなく

「私はこういう考え方を、竹田の文章ではじめて読んだ」

と書けば十分だったはずという。

その程度のことを、あたかも歴史的客観的真実のように言ってしまう加藤に「文学」精神の弱さをみると小熊は言う。

さらに、加藤が別のところでも、「戦死者を掲げて昭和天皇を批判した三島由紀夫を『戦後における唯一の例外といってよい存在』などと呼ぶ」、同様の大げさな物言いを重ねていることについて、「自分がこう思う」と書くことの不安に耐えられず、つい都合の良い、まがい物の客観的真実をでっち上げそれに寄りかかる弱さではないかと追及している。

これは、まるで自分のことを言われているみたいなので印象に残ったわけである。私も講演じみたことをするときがあるが、たいていは間に合わせの仕事になってしまい、そういう時は、つい聴くほうの無知に乗じて大げさに物を言い、さも自分を事情に通じた人間に見せることをやっている。

これは反省しないといけない。

それはさておき、若い優秀な書き手がたくさん出てきているので、私の初老期の読書もおかげで豊かなものになりそうだ、という喜びは確実だ。

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