Stay Home をお願いしたい
某知事に「Stay Home をお願いしたい」と言われると在日外国人に向かって言っているんだなと思う。
歴然としたレイシストだから。
全県の学生生活支援の臨時共闘を、大学の教職員組合、大学生協連、中小企業同友会、さらに県労連や県生協連に呼びかけてみようという提案を県民医連の会議で言い出してみたが、こんな簡単なことが一瞬では伝わらなかった。説明の挙げ句の到達点は「できたらいいですね」。これが医学生時代から50年近く僕が打ち込んできた運動の現状だ。まさに引退の時期は来た。
別の運動様式の確立に余生をかけるつもりだ。
しかし、考えてみるとそれが普通の反応だ。従来からある中間団体単位の共闘組織はもう組めないし、組めたところで無力だ。ワン・イシューの個人単位のネットワーク、つまり、いまアメリカなどで目にする運動形式に頭を切り替えていかないといけない。
僕が引退するのは従来の「上から作る中間団体型の運動」。肩書なしの新入りとして、コミュニティ・ベーストな運動にどう加わるか考えるつもり。もう役には立たないと思うが、新天地が開けている気もする。
今日の読書メモ
○貨幣ー商品ー(より増えた)貨幣 つまりG-W-G‘ は有名な資本運動の定式で、GはGeld、ドイツ語で貨幣だと知っていたが、WをずっとWertだと思っていた。本当はWare(ヴァーレ)ドイツ語で商品だった。Wertだったら価値という意味なので、それでは全く意味をなさないことになってしまうのに。
ところで、英語で商品をどういうか、と考えてふと迷う。goods ではくだけすぎだろう。
調べてみると以下。
「①commodity(コモディティー):基本的には複数の「commodities」が多用され、農産物などの商品のニュアンスが強い。
②merchandise(マーチャンダイズ):「goods」のフォーマル形だ。しかし、会社間の取引などで頻繁に使われる。「goods」は消費者と販売者間、「merchandise」は会社間と覚える.
③ware(ウェアー):陶器や器物のニュアンスが強い「商品」です。ちなみに台所用品は「kitchen ware」。」
おや、ware は英語もドイツ語も同じ綴りか。
hardware はパソコン本体というよりもともと「金物」のこと。 これが hard wearだと固くて着づらい上着だろうか。
softwareとなると竹細工か何かと思ってしまうが、これはhardwareからの連想で、最初から「ソフト」つまりプログラムの意味だったのではないか。
○ ディジタル・プロレタリアート。 SNSを扱っているとき、無料であるいはみずから金を払って、fb などのプラットフォーム資本家のために人々は情報・データを生産させられている。
○資本家は無限の価値増殖運動の歯車でしかないというが、僕としてはそこに生物学的な動機を感じる。
他人の支配という何か本能的なものを感じる動機である。
自己家畜化がボノボまでは行きつかず、チンパンジーと同じく残酷な能動的攻撃性が残ってしまった現生人類として抑制しえない衝動なのだろう。
これを克服するとき、現生人類人類は進化する。
〇共有物を囲い込んで奪うことを本源的蓄積と呼ぶなら、それは資本主義のスタート時点で一回だけ起こったことでなく、資本主義の時代ずっと継続されてきたことになる。そのように収奪されるのは植民地主義による途上国の共同体や、自然の収奪だけでなく、先進国内部の公共性(教育、医療、交通、水道、衛生、環境)も共有物から商品に変えられていった。後者が新自由主義だったことはすでに明らかである。
12月31日はなぜか2011年1月10日発行という微妙な発行日のNHK出版新書を本棚から取り出して読み耽ってしまった。微妙というのはそれはほぼ10年前、僕の59歳の誕生日で、東日本大震災や大きな悲劇がその年起こるのに、その時点では、その予兆を全く感じてもいなかった日だからである。
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000883392011.html?gclid=EAIaIQobChMIrvGQv8z47QIVgXZgCh1yOgC3EAAYASAAEgK5g_D_BwE
本自体は社会学の初学者への講義録のような本で、僕のように我流で本を読んでいる者には、実に親切な中身になっていた。
知っているつもりで知らなかった社会学の基本的な用語を改めて知る機会になった。
しかし明らかに間違っているところもこの本には各所ある。例えば35ページ:ルンペンプロレタリアートを「次の革命の担い手」としているところ。213ページ:医療を商品交換の典型例として用いているところ。医療は今も社会保険として実践されており、患者の支払いは一部負担であって、商品としてのサービスの対価ではないから、本質的にも、制度論的にも間違っているとしか言えない。また234ページのように物象化と物神化を混同した話は読んでいるものを混乱させる。
こういういい加減なことを平気でするので、僕はずっとこの大沢真幸(おおさわ・まさち)という著者を信頼できない語り手だと思ってきたし、この本でも、多くを教えられてもその印象は変わらないのである。
以下、最小限のメモ。
○本質的には人と人の関係であるものを、現象的には物と物つまり商品同士の交換に置き換えて見せることを呼ぶ「物象化」という難しい言葉と対になる逆の言葉は「人格化」である。これは非限定的diffuseと限定的specificとの関係でもある。ゲマインシャフトゲゼルシャフトの関係とも類似する。
○物象化が行くところまで行くと逆に物の人格化(=神格化)が現れる。これを「物神化」と言う。これはフロイトの「抑圧されたものの回帰」とも言える。*ただし、日本では物の神格化は別に珍しいことではなく、富士山はじめいろんなものが神様になっている。鰯の頭でさえ。
○しかし今日のfbのしていることは、現象面では人格化的関係を提供するように見えて、本質は個人の情報化から利潤を獲得するという特殊な物象化である。つまり物と物の関係に過ぎないものを人と人の関係に見せかける逆物象化が現在の資本主義の特徴かもしれない。
○柄谷行人の言う「超越的」という言葉の意味が理解しにくくて困っていたが、これはカントが思考する自由に名付けた形容詞だった。
○2020年ににわかに注目された、エッセンシャル・ワーカーとブルシット・ジョブ・ワーカーという労働者階級の2極分化現象は2011年のこの本でもすでに注目されていた。それはロバート・ライシュが言い始めたことでもある。この新たな亜(準)階級分化がリベラル対ポピュリズムのイデオロギー対立も生むこともこの時点で常識化していた。
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