2009年7月 9日 (木)

私の前史と、こうの史代「この世界の片隅に」双葉社、2009

「夕凪の街 桜の国」のこうの史代が、またまた画期的な作品を発表した。

しんぶん赤旗でも本人へのインタビューがあり、紙屋研究所が熱弁をふるい、同郷の哲学者川本隆史氏(東大・教育)まで図書新聞2009年上半期の3冊に取り上げている。

実は数か月前、JR浜松町の駅中の本屋で平積みされていたのを買わないで帰ったのであるが、失敗だった。結局、宇部市に上中下3冊1セットだけ残っていたのを私が買うことになった。おかげでこの本の宇部での普及はこれで止まったかもしれない。

簡単に何かを書くにはやや長すぎるこの作品に触れる前に、私はなぜか、自分の生まれるまでの歴史を記録してみたくなった。

私の祖先は島根県(石見地方)南部から広島県北部を移動して、何代にもわたって医者をしていたらしい。当時の医者は誰でもなれるもので、香具師かばくち打ちに近いものではなかっただろうか。正式?の医者は曽祖父 玄策だけである。

彼は、村の貧乏寺から私の家に婿養子に入り、尼子さんという当時は珍しい大学出の医学士の家で数年書生をしていた(*検索によると尼子四郎 1891年ー1893年 戸河内村で開業、後に山口県下松市、ついで東京、やがて医学中央雑誌の創刊に関わり、夏目漱石とも交流、か?)。その経歴だけで、明治政府から西洋医としての開業医免許をせしめたのである。

それから公職としての村医になり、昭和17年(1942)に88歳で死亡するまで医者を続けた。薬代の払えぬ患者から田畑を取り上げたので、子供を京都帝大に進学させているような村の大地主K家に次ぐ村の中小地主になりあがった。

ただし、彼の名誉のためにいうと、彼が丹念に作り続けた何十年かの村民の死亡診断書は資料的に評価されて、広島県医師会の発足100年を記念する何かを作る際に提供を求められて、そこに収録されているらしい(というのは私は実物を見ていないからである)。死亡診断書の束自体は私も見たことがあり、自殺例や他殺例もある多彩なものだった。

さて彼は、長男と甥を東京の医学校にやり、二人とも後藤新平から開業前期試験合格証をもらっているが、20歳前後に結核で相次いで死亡している。

長男の名前は輝夫といい、彼の自筆の作文集が祖父の手元に残っていた(というのは祖父の死の前後のどさくさで紛失したからである)。当時盛んだった少年向けの投稿雑誌に何篇か掲載されたらしく、原稿の題名の横にそのことが書かれていた。最後の作品は、発病して東京を去る直前に書かれたものらしく、「帝都の夜に病身の自分を想う」という風の書き出しで、明治43年(1910)の日付があった。石川啄木と同時期に東京にいたのだと後で私は考えたものである。彼は帆をかけた船で太田川を加計まで帰り、その後の山道は背負われて八幡高原まで行き着き、まもなく自宅で死んだ。

曽祖父の次男 不二仁(筆名 富二仁)が私の祖父である。彼は早世した兄の代わりに医学校に行くのを断って、気ままに生きた。村の助役になったりしながら、父の貯めた金をあてに、郷土山県郡を紹介する定期刊行の写真雑誌を発刊し(これは現在貴重な郷土史の資料になっている)、三段峡周辺にバスを走らせるバス会社を作った。

その後、このバス会社が広島電鉄に吸収されたため、彼は広島電鉄の一営業所長のポストを与えられ、一時期広島で勤め人生活をする。それ以前の山村風景を写した写真と合わせて、このとき撮った写真も原爆前の広島の庶民生活を写しているというので評価されている。

そんな生活をしながらも祖父は徴兵検査で成績が悪く、徴兵されることはなかった。そのためか、父 耕作は早くから戦争に出たがり、満蒙開拓団少年特別義勇兵になって茨城県内原で訓練を受けたり、その途中で海軍特別少年兵(航空兵)採用の知らせが入りそちらに転じている。終戦は山口県防府市の海軍基地で迎えた。

戦争が終わって、曽祖父は公職に就けなくなり、村に帰った父は助教諭として村の中学に雇われて、体育の時間に生徒をむりやり臥龍山(標高1223m)に駆けあがらせるなどという乱暴な教育をする青年教師になった。慶応の通信教育で中学理科の教員資格を得たのはその数年後である。

その途中で生まれたのが私だが、幼いときから、なぜか「輝夫さんの生まれ変わり」と言われていた。

それは小学校1年の時、広島大学の八幡高原総合調査団が私の村に入り、方言や民俗風習の採取、植生の調査、児童の知能検査などを行ったことによる。小学1年生の中にIQが147という(調査団からみるととんでもない)数値を出した子供がいて、おそらくへき地を蔑視していただろう調査団を驚かせたのが私だった。

今から考えるとただ早熟であったにすぎないが、父からその結果を漏れ聞いた周囲は私が輝夫さんの遺志を継いでついに本物の正式の医者になるものと決めてしまい、幼い私も素直にそれを受け入れたのである。

話が横にそれた。

問題は祖父が撮りためていた写真である。二千枚の写真乾板は保存が非常に悪い状態で私の家の蔵に放置されていたが、村に別荘を構えた元中国新聞写真部長の紺野さんに退職校長の父が相談したところ、中国新聞の好意で約2年の歳月をかけて修復現像された。

「芸北、カメラが語る昭和初期」と題されて、広島市の中国新聞ホールと村の公民館で公開され、その後芸北町教育委員会から出版もされた。

その写真集にも数枚収録されているが、戦前の広島市の商店街を写した写真もあり、原爆前の広島の珍しい写真として中国新聞にも掲載され、そこに写っている商店の(原爆を経て生き残った)子孫も見つかり、父が新聞に談話を寄せたりした。

その写真が「この世界の片隅に」の8ページの広島の絵によく似ている。

戦前の広島の写真は相当数残っているはずで、全く別ものかもしれないが、同じ時代の同じような光景を祖父も写真家の目で見ていたはずだ。

それだけが言いたくて、長々と書いてしまった。

こうの史代の作品そのものは、静かに胸に迫るもので、戦争を知らない世代がどう戦争の記憶に向かい合うかを考えるとき、今後必ず思い出されるものになっていると思う。

「うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかない」 終り近くで記される「記憶の器」という言葉は、雑誌「世界」1995年1月号での大江健三郎特別インタビューを思い出させる。大江は、ミラン・クンデラの「記憶することは権力に対する弱い人間の武器だ」という言葉を引用し「記憶によって私たちは生きている」と言い切った。こうの史代は正しくそれを実践しているのだ。

彼女こそ広島人の誇りである。

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2009年7月 6日 (月)

国立近代美術館「ゴーギャン展」3日目に行った・・・《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》初来日・・・ソフトバンクの犬の謎

雑誌「民医連医療」9月号の依頼原稿1万字をようやく書き終えた。

ソリッド・ファクトと社会疫学の説明という依頼だったが、難しいことが二つあった。

まず、社会疫学については関連の本を10冊ばかり読んだというだけの全くの素人であったこと。しかし、一臨床医として社会疫学の成果をどう受け止めたかは書くことができると思うので引き受けたのである。

もう一つは、説明・報告という役割が生来苦手だということである。自分の意見を言うのはなんとかできるが、他人が考えたり言ったりしたことを要領よくまとめてしゃべることはできない。中学生のころから読書感想文が苦手だったのは、義務のように本の要約を冒頭に書くことを求められたからである。今回もこれにもっとも苦労した。器用なことはできないのだ。

というわけで、脱稿してすこし気が楽になったところで、7月5日曜日、東京・竹橋にある国立近代美術館に「ゴーギャン展」を見に行った。

江戸城のお濠の中にあるこの美術館は古く粗末な建物である。開催3日目の初の日曜なので行列ができているはずと思いながら地下鉄を乗り継いでたどり着いた。場所が悪いのか、人はほとんどいない。今回の目玉は、ボストン美術館蔵で日本初公開の《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897-98)であるから、こんなはずはないと思いながら、しかしやっぱり人は少ない。展示作品もそう多くはなく 急かされない静かな時間が過ごせた。

誰にも邪魔されずに《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の前に立ち、大きな絵の前を右に左に歩いてみることができた。

同じ絵を作者ゴーギャンも描きながら同じようにして見ていたのかもしれないことに気付いて、ゴーギャンになった気分で眺める。

いくつかのことを初めて知った。

ゴーギャンが株の仲買人をやめたのは1888年の金融恐慌のせいで仕事がなくなったからである。今回の戦後最大規模の金融恐慌もすごい画家を生むきっかけになるかもしれない。

ブルターニュにはケルト文化が色濃く残っており、ゴーギャンはそこにタヒチと同じ野性を感じたのである。

彼がタヒチに向かってフランスを立った時、「失われた純潔」のモデルでもあった恋人は妊娠していた。

タヒチで妻とした女性は13歳にすぎなかった。

「熱帯のイブ」として何枚もの作品に登場する女性のポーズは、ジャワ島のボロブドール遺跡のレリーフをモデルにしたもので、タヒチとは無関係である。ちなみにイブを誘惑する蛇は、ゴーギャンの絵ではトカゲとして表現されている。

死を待つ女性が頭を両手で抱え込むポーズは、ペルーのミイラから思いついたもので、これもタヒチとは無縁である。

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の中心にある偶像は仏像ではなく、タヒチの土着の神様、再生を司どる月の女神である。

一番驚いたのは、絵の中に描かれる犬は、たいていの場合ゴーギャンを表すということである。

決まった動物を自分に擬すというのは、古代的で面白い手法である。どこかで真似してみようと思った。

*ソフトバンクの白い犬のお父さんは、ゴーギャン=犬の公式の応用に過ぎないことが証明された。

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2009年6月28日 (日)

ソリッド・ファクトを勉強しながら…日本人の糖尿病について

日本内科学会雑誌の最近の糖尿病特集でも、日本人は遺伝的に膵臓のベータ細胞のインスリン分泌能力が低いので、軽度の肥満によるインスリン抵抗性の上昇→インスリン分泌需要増加に対しても、容易にインスリン分泌の相対的不足・破綻を来たし、2型糖尿病が発生する、とごく当たり前のように書いてある。したがって、白人はものすごく肥満してもなかなか糖尿病を発症しないのに、日本人は小肥り段階で糖尿病を発症しやすいというわけである。

しかし、どこに、日本人一般の遺伝的特性などというものがあるのだろう。遺伝的に日本人は単一ではなく、かなり多様である。(たとえば、縄文人と弥生人のように・・・それは俗説らしいが、一つの例として)

ソリッド・ファクトの小冊子に興味深い図が載っている。幼少期、という項目にあるものだが、出生時体重の連続的勾配に対して、64歳男性の糖尿病罹患率が見事に連続的勾配を見せて照応している。すなわち、胎児期の環境が悪く低体重で生まれる子どもは、60歳代になってより多く糖尿病を発症しているのである。これは、選び抜かれた、確かな事実 ソリッド・ファクトの一つである。

わけのわからない「日本民族の遺伝」をまるで大日本帝国時代のようにふりまわすより、胎児期環境を論じるほうが、日本で居住している人間一般に共通する何かを探り当てる率が高いだろう。

成人期の膵臓ベータ細胞のインスリン分泌能に制限を生じるような、日本社会特有の、胎児期、あるいは乳幼児期のありようというものはないか?

それに似たものに第2次大戦中のオランダで生じた「飢餓の冬」というものがある。この時期に胎児だった人たちは、成人後の健康上さまざまな障害をもっていた。糖尿病罹患率も高い。

日本の戦後のベビーブームの時期も食糧事情は悪く、その中で生まれたいわゆる団塊の人たちは、、その不良な胎児期・乳幼児期の栄養環境のため、糖尿病、腎臓病になりやすいのではないだろうか。最近の糖尿病罹患率の上昇にその影響はないのだろうか?

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2009年6月25日 (木)

林京子「無きが如き」(1981年、講談社文芸文庫1989)と肥田舜太郎医師(「ヒロシマを生きのびて」あけび書房、2004)の関連

長崎への出張には、もう一ついいことがあったのを思い出した。90歳を超えた肥田舜太郎先生の講演を聞き、夜は同じテーブルで会食できたことである。ふと、数年前、故加藤周一さんとも、大勢がいる中で偶然同じテーブルに座ることができたことを思い出した。こうした長老とはそばに座るだけで学ぶことが多い。というか、そうした形でしか学べないことがある気がする。

さて、講演の中で肥田先生は、1975年に初めて国連に行った話をした。

当時の国連事務総長はワルトハイムだったが、彼は核兵器廃絶の要請に共感を示しながら、「被爆者が今なお苦しんでいる」という肥田先生のレポートはとうてい受け付けられないと言った。というのは1968年、当時の事務総長ウ・タントによって(日米両国政府が原案を作成した)「被爆者のうち死ぬべきものは死に、生存している被爆者は全くの健康体である」というレポートが発表されていたからである。低線量被爆や内部被爆が大きな問題となっているということは、国外では全く知られていなかったということになる。

驚愕した先生は「原爆の医学的傷害」をテーマにした国際シンポジウムを1977年に日本で開くべく奔走し、民医連の事業として詳細な報告書を完成させるのである。

それから今朝の話となる。起床して着替えるまでの短い時間に読み直し始めた林京子「無きが如き」(1981年、講談社文芸文庫1989)のなかに、見逃せない一節を私は発見した。

この小説は、主人公が現在は「女」、 回想では「私」と書き分けられ、また主人公の重要な友人2人に「春子」、「花子」と不思議な命名がされるなど、意識的な構成が見える作品である。

その中に、爆心地から1000メートルのところに開業し、5人家族のうち1人だけ生き残った70歳代の医師が出てくる。彼は、最近70歳以上の被爆者に白血病が増えてきた、初期の若年者での白血病多発に続く30数年後の2回目のピークが来ているのだと語る。放射能の被害とはっきり断定できない、しかし、歴然と結果だけはある、「原爆被害の実相」長崎レポートにはその詳細な報告がある、断定できないことと人体に影響がないということは全く別の問題だ、という。

この「原爆被害の実相」長崎レポートとは何だろうか?長崎原爆被災者協議会のホームページに次のような記載がある。

「1977年7月、国連NGOによる『被爆の実相とその後遺・被爆者の実状に関するシンポジウム』がはじまりました。このシンポジウムには、準備の段階から長崎被災協も積極的に対応しました。被爆者調査などこのシンポジウムへの取り組みの成果は『原爆被害の実相・長崎レポート』としてまとめられ、7月末の広島でのシンポジウム本集会に間に合うように刊行されました。それは、それまでにみられない重厚な内容『原爆白書』でした。」

このレポートこそ肥田先生たちがまとめたものではなかったのだろうか。

もちろん作中の医師は長崎在住で平和運動にも関わっている被爆医師であり、肥田先生そのものではない。しかし、たまたまそういう医師と作者が知り合いだというのも偶然すぎる。設定は別にして、ここで語っている人は肥田先生なのではないのか。

ここで講演会場で買った肥田舜太郎「ヒロシマを生きのびて」あけび書房、2004を取り出すと、巻末には何と林京子さん自身が寄稿している。医学者の目を通した、被爆者の実相を聞くため二人が会ったときのことが詳しく書かれている。

ただし、その文章は2003年に書かれ、二人が座談したのは14、5年前とされているので、肥田先生と林さんの出会いは作品より10年ぐらい後ということになる。となると、上に書いたわたしの推測は全くあたっていないということになるのだが・・・・。

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2009年6月24日 (水)

長崎出張の効果…林 京子作品が読みやすくなった

実は、長崎にわずか数日でも滞在したのは今回の出張が初めてだった。

これまでは、大学を卒業した年の夏に、両親と、嬉野、島原半島、天草を回ったことがあり、そのとき長崎を通過した覚えがあるというだけである。

今回の出張でも、どこも見物する気はなかった。することは会議の場所とホテル・コンビニの往復だけと、いつものように決めていた。

ところが、会議と会議の間に3時間も空白があり、会議場のすぐ前に電停がある。しかも、長崎の市電は運賃支払が簡単で、降車時100円均一なのである。乗らないではいられない。

谷間に長く延びた小さな町の底を玩具のような電車で登っていくという、童話風な散歩が待っていた。

広島とはずいぶん趣の違う平和公園に行き、少し離れたところにある原爆資料館にも行った。被爆後すばやく現地入りした米軍に押収されたのか、資料はそれほど多くない。それでも、展示はよく工夫されていて、核兵器問題をしっかり学習することができる。韓国語を話す老若男女の一団がいて、熱心に話し合っていたのが印象的だった。もちろん、長崎の原爆で亡くなった半島の人たちは少ない数ではないだろうし、北朝鮮が核実験を繰り返している今は、より切迫したものに感じられるはずだ。

爆心地という狭い窪地にも立ってみた。傍を流れる小川が死体で埋まっていたというのが実感される。ようやく長崎に来たという気がその時、初めて起こった。まるで、ずっと前から来たくてたまらなかった自分がいたように思えた。

宇部に帰って、林京子の文庫本を手に取ってみた。実は、林京子は苦手な作家だった。書店で見かければ義務的に買うことは買うのだが、地味な語り口のためか退屈して読み続けられない。この前、我慢してようやく「無きが如き」(1981年、講談社文芸文庫1989)一冊を読み切ったが、まだ読んでない本がたくさん残っている。

ところが、長崎を一度訪れると、突然興味深い小説家になってしまった。

取り出した「無事」は、1981年5月19日ライシャワー元駐日アメリカ大使が核積載米艦船は自由に日本に寄港していると発言したその日、「私」が初めて広島を訪問した時のことを描いた作品である。

当時、広島空港は市内西部にあって、飛行機がそこに着陸しようとするとき、あたかも原爆投下のため広島上空に侵入した爆撃機に自分自身がなってしまったような錯覚が「私」に生まれる、ということが最初のほうに書いてある。

実は、私も神戸や、大阪や、名古屋などの大都市を見下ろしながら飛行機が進むとき、そこを空襲する爆撃機に乗っている感覚にはよく襲われるのである。今回も、雲仙の北を通って、山間を縫いながら大村空港に飛行機が降下する間そんなことを考えていた。

もちろん、作品の中心はそこにはない。「私」の恩師の若い女教師が、被爆後に工場動員されていた教え子の安否を尋ねて歩き回り、何人かの名前の下には「無事」と記して、1か月後には原爆症死する、その「無事」という言葉の意味を「私」が自問する場面こそが、中心である。ここで涙を抑えられない読者は多いだろう。

ともあれ、これからは自由に読むことのできる重要な作家を得たというのが、この出張の成果だった。

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2009年6月23日 (火)

出張の影響・・・山中克郎氏や岩田健太郎氏の言葉

木曜日から月曜日、東京→長崎への4泊5日の出張の後なので、火曜日の診療を始めてしばらくの間、違和感が続く。言葉を変えていえば、患者さんに感じる新鮮さが回復するということかもしれないが、あくまでハードな出張であり決してリフレッシュ休暇ではなかったので、疲労感が張り付いた新鮮さという奇妙な感じである。

そのうえ、出張に行っていた間に溜まった用事も容赦なく襲ってくる。

会話もぎごちなくなり、なんとなく自分が医者に向いてないという気がする。

「20年やっていてもまずいラーメンしか作れないラーメン屋もいれば、3年目で行列ができる店もある」

と、先週、藤田保健衛生大学の山中克郎医師が話していたのを思い出す。34年目に入って自分は本物の医者らしくなれない。臨床の才能というものがあるとすればその才能がなかったのだ、あるいは厳しい修練を自らに課すことがついにできなかったのだ、という思いに次第にとらわれていく。

4泊5日の現場不在は、リフレッシュでなく、自我の縮小につながったようだ。要するに軽いうつ状態である。こういうときは大きい声が出ないので、問い返されることが多く、、そのたびに言葉が尖っていくのを修正できない。

夕方、無料で送ってくる「ドクターズ・マガジン」を読むと、1997年島根医大卒で神戸大学教授になった岩田健太郎氏の記事が出ている。彼によると、日本は医療制度は世界有数だが、医療内容は欧米に比べると見劣りが激しいということである。

それが本当だとすると、それはそれでいいのだ、しかし、その現状認識が、間違っているのじゃないか、と私は呟く。

もし、患者を平等に扱う公平な医療制度ができあがっているなら、医療の中身がどんなに拙くても国民の寿命は延びていく。せめて医療の場だけであっても、平等に扱われるということで人間は健康になり、寿命を延ばすのである。そのときに、医者のレベルがアメリカの金持ち相手の大病院に劣っているの優れているのという議論はまるで無意味だ。

しかし、問題は日本医療制度をいつまでも優れていると決め付けていられるものかどうかである。患者の自己負担が総医療費の20%近い。これは先進国の姿ではもはやない。

医療制度もだめ、医師の腕もだめという日本になりつつあるのではないか。

日本の医師は、戦後民主主義の成果である医療制度の効果を見ずに、自分たちの腕がいいと信じ込んでいる。それは妄想だと、君らは本当はやぶ医者なんだと岩田氏や山中氏は言っている。それはそれで正しく痛快だが、医療制度ももうだめになっているのである。

ついに平均寿命が短くなったのがはっきりしないと、みんなそのことに気付かないのかもしれない。

こんな風に考えてしまうのも、長期(私にしてみれば)出張後の、自我縮小なのだろうか。それとも、しばらく現場を離れて、見えるべきものが見えてきたのだろうか。

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2009年6月16日 (火)

毎日新聞 湯浅 誠インタビュー

先週から、毎日新聞に湯浅 誠のインタビューが連載されている(「時代を駆ける」月曜~水曜)。今日、それに気付いて、古い新聞を捜して切抜きを作った。

その2回目か3回目に載っていた写真。眼鏡を掛けた小学3年のほっそりした子どもが、重度障害のため車椅子に乗っているやや大柄な兄の背中側に立ち、兄の胸の前に両腕を伸ばして兄の手を握っている。母親が撮ったという。

兄の手を握るというなんでもない動作だが、そこにはどんな感情が動いていたのだろう。こんな小さな子どもの心の中に。

この写真を選び出した母親の気持ちが伝わって、しばらく新聞を手放せなかった。

*その後、私は、その少年の切なそうな顔が私の次男の幼い頃に似ていることに気付いた。幼い子どもとつきあえる時間は本当に短い。そして思い出すと幼い子どもはみんなどこか不幸で傷を抱えているように見える。それを取り返すことはもはやできない。もう少し年取った私は、おそらく幼かった子どもと遊ぶ夢を見るだろう。だが目覚めると、その夢のあまりの遠さに胸を衝かれるのだ。

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2009年6月15日 (月)

「ERの哲人」山中克郎講演会とアカハタチックな保険医協会

「診療報酬がなんとか、レセプトオンライン化がどうとかというアカハタチックなことはしないで、保険医協会はこんな勉強会をもっと活発にしなきゃ」

 私が部長を務めている山口県保険医協会地域医療部は613日・14日、「ERの哲人」(2006年株式会社シーピーアール刊2006)の著者、藤田保健衛生大学准教授の山中克郎氏の講演会を開いた。

どんなお馬鹿な発言をしても決して責められない、いわゆる no blame culture が文字通り実現されている講演は知的な刺激と暖かさに満ちていた。山中氏は私より7,8歳は若いが、こういう優秀な教育者がこの国の医療界に育っているのだというのは衝撃だった。

     もっと衝撃だったのは、講演が終わるごとに山中氏から、出席者に表彰賞品が渡されることである。最年長の参加者は「夜のお菓子 うなぎパイ」を貰っていた。役に立つのだろうか?ひょっとしたら、名古屋で行われる講演会は全部こういうスタイルなのかもしれない。喫茶店では真夜中にもモーニングサービスがある土地なのだから十分考えられる。

さて、標題の言葉は、その時参加された比較的年長の会員から私にいただいた言葉である。 

保険医協会内であまり注目されているとは思えないが、地域医療部はここ数年、ある意図を持って系統的に学習会を企画してきた。それは、所属がクリニックであるにしろ病院であるにしろ、日本の医師の半分以上は「総合診療医」であることが求められているという私の独断的信念に基づいて、総合診療の各領域のもっとも旬な講師の話を、膝を交える距離で聞こうということだった。

EBMは別府宏国氏、臨床倫理は故白浜雅司氏、患者とのコミュニケーションは藤崎和彦氏など。どれも参加者数は余り多くはなかったが、その分、無理にでも時間を作って参加した人には鮮やかな印象を残しているのが間違いない。

前回から、クリニックや救急室での初診診断はどういう仕組みでなされるべきかを論じる「診断推論」に重点を置いた。「誰も教えてくれなかった診断学」(医学書院、2008)の著者、野口善令氏(名古屋第二日赤病院)の講演会が好評だったので、野口氏の推薦で今回、山中氏を招いた。県内の臨床研修指定病院にも全部案内し、研修医の段階で保険医協会の存在を知るという先行投資の目的も持たせた。

     野口氏と山中氏の講演を総合すれば、私たち総合医の診断は二つの方法のらせん的繰り返しである。まず最初は、仮説演繹法と名づけられる系統的な病名想起にもとづく診断。もう一つは、最初の方法の繰り返しが作り出す帰納法的なスナップ診断。医師がある程度熟練するとスナップ診断ができるようになるが、その診断に違和感を感じたとき速やかに仮説演繹法に戻ることが大事。そうしていると、またより高い段階のスナップ診断が可能になる。本当に大切なのは、この診断では少しおかしいという違和感の感覚を養うことである。すでに確立した医学を患者に適用することが医療だというのは、専門医の話。総合医は、一歩ずつ反省を繰り返しながら前に進むしかないのである。

 

   苦しい場面は多々あっても、医師の仕事は面白くすばらしいんだ、という山中氏の最後の訴えは参加した若い医師や医学生の心を奮い立たせたに違いない。 

そういう経過の中での上記の言葉だったので、大変ありがたく拝聴した。

しかし、総合診療医としての学習と、「アカハタチック」な運動が矛盾するものではない、むしろ統一されていなければならないことは、私としてはやはり、強調しておかなければならないことである。 

政府は平成21年度補正予算で巨額なバラまきをやって見せたが、一方で6月16日にまとめる「骨太の方針2009」原案では、毎年2200億円づつ社会保障費の伸びを抑制する「骨太06」を堅持する方針を固めている。国民大多数や与党内の世論さえにも真っ向から反対するものである。日本郵政グループをめぐる対立の中でも自らの不都合が露見してしまうのを恐れる小泉・竹中の猛烈な巻き返し工作が麻生の意向をむりやり変更させたのは間違いがない。破綻したはずの新自由主義政策が息を吹き返し、医師の良心も生存できない社会環境が再び生まれようとしているのだ。景気は底を打ったと宣伝されているが、4月の雇用状況は最悪で、来年には失業率が6%に達するだろうと予想されている。貧困と格差の進行の中で非正規雇用者層の健康悪化が、たとえば、年末の年越し派遣村に集まった労働者の様々な悲劇的事例として報告されている。

これが医師にとって放置できる状況だろうか。 

地域医療部の総合診療学習会も、少し方向を変えて、健康の自己責任論と徹底的と闘っている「社会疫学」(WHO欧州事務局「健康の社会的決定因子 the Solid Facts確かな事実」など)を対象として取り上げるべき時期だと私は考えている。 

社会保障を守る運動と医師としての学習は決して切り離せないし、一つでなければ意義も力もないものなのだ。 

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2009年6月 9日 (火)

宿題と当直で身動きとれず

6月6日土曜日は日直だった。それが何とか終わった夕方、宮城県塩釜市からK先生到着。翌、日曜に開く職員研修会での講演を依頼したのだ。魚を食べに行く。つい日本酒を飲みすぎて、夜は気持悪く寝る。

7日日曜。講演は急性期医療に吹き荒れている「DPC」の話である。DPCに参入しようがすまいが、地域医療全体が甚大な影響を受けているので避けて通れないと考えて選んだテーマである。2時間半ではとても足りない。参加したみんなが自発的に勉強し、議論を続けてくれることを期待しながら、K先生を空港に送った。

その後は宿題になっている原稿が4つくらいはあることを確認し、何とかととりかかる。急ぎは、キューバ医療視察記録の出版に関わるもので、1800字の短い文章である。短いが、「社会疫学とキューバ」というテーマで、どこにも手本はない。貧しい思考が浮かび上がるような、重い筆運びになる。

8日当直。夜間の救急車3台ほか直接来院数名。別に大変ではないが、血液検査やX線、超音波、何もかも一人でやるので、これだけでも眠る時間はない。これがしょぼい救急病院の実態である。

手待ち時間に、「1万字で社会疫学入門」という宿題に取り掛かり始める。やはり、貧困と健康、という話になるので、湯浅 誠の岩波新書「反貧困」の引用からはじめる。

気づくと、「はじめに」だけで4000字書いていた。全体が1万字だからこれはまずい。今夜はもう書かないと決める。それから、当直室の隣のバスルームで入浴すると、ふと意識を失いそうになる。老人でなくても入浴中の事故は多いのだ。

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2009年6月 3日 (水)

Divercity  スペルは正しい?

Google-youtubeでイギリスの芸能番組を見ていたら、Divercity というすごいダンスを見せるグループがいた。

私が知っている単語はdiversity 多様性である。綴りが少し違う。

C と Sの違いだが、Cにすると面白い。

街を潜るという面白い語感がある。

こんなもの買ったって、と思って、中沢新一の「アースダイバー」は読まずじまいだったが、そのネーミングの面白さが記憶に残って、上のような感想になったのに違いない。

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