2024年7月14日 (日)

デビッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』(以文社2006年)に刺激された断章


○きっとマルクス主義的にしか変革できない領域と、アナーキズム式にしか変革できない領域があり、それは変革の相補性と呼ばれるのだ。

これはおそらく正義の倫理とケアの倫理の関係。
7月14日号の赤旗日曜版一面は、選択的夫婦別姓制度推進を提言をした経団連本部へのインタビューである。経団連としてはビジネスサイドから通称名使用では難点が多いためとしているが、赤旗と経団連の意見の一致から考えさせることが多かった。

世界中の極右台頭は、新自由主義側の遭遇した困難の解決のためだった。つまり新自由主義国家が、グローバル・サウスの貧困を深め、先進国でも社会保障を削減する一方で、多国籍大企業には莫大な援助を惜しまないという、誰の目にも明らかな「不正義」を行なっていることが明らかになって糾弾される中で、その反撃のためには、事態をごまかす、民衆操作に有効なイデオロギー的支援を必要としたということである。

それが移民排斥、男性優位、宗教差別の温存というイデオロギーを持つ極右との同盟だった。
そのイデオロギーは新自由主義にとって本質的なものではないので、あくまで政治的支援の取り付けに過ぎない。一部は「トロイの木馬」となるリスクは承知の上だろう。そこまで「不正義」の批判は新自由主義を追い詰めるのにある程度は成功したということでもある。

そういうなかでも、上記のように新自由主義はビジネス上必要であれば夫婦別姓だって肯定する。同時に巨大な性産業からの要請があれば、買春の合法化にもためらいはないだろう。

しかし、一旦舞台に上げてもらった極右は、この間、結局は新自由主義を受け入れてきた欺瞞的左派や中道エリートへの反感の組織をてこに勢力拡大に成功する。性自認法制度化を左派エリートが肯定していることへの反発はその中核に位置づいて、彼らの大きな武器になる。
フェミニズムつまり「ケアの倫理」に裏打ちされた家庭医療学との合流を果たしたあとの民医連は、何に直面するのだろうか。

それはフェミニズム的視点から資本と国家の馬鹿馬鹿しさを浮き立たせる(同じ土俵に立たない)世界変革戦略の様式であるアナーキズムと、資本と国家に正面から同じ土俵で階級的にぶつかっていくマルクス主義ーそれの今の課題は機構危機の解決に他ならないーとの、統合を医療という現場で実現させる問題である。

国家を無意味化させる自己統治的地方政府主義ミュニシパリズム路線と、戦争放棄を守り抜く国家路線の統合が、医療の場でも必要になっているのは現実の話である。

極右の政権獲得や勢力伸長で新自由主義が生き延びてしまえば、新自由主義はさらに力を増し、もはやどんな批判も許さず、日本で言えば対中国への臨戦態勢を口実に被支配階級の階級的抵抗の基盤を根こそぎ破壊することになるだろう。沖縄米兵の性犯罪隠蔽への転換もそれを目指した一環だろう。

それは、第2次大戦後の自由民主主義体制への反動を超えて、日本で言えば完全に戦前の復活。ロシアやアメリカなどでは大統領制から皇帝制への変質、21世紀のナポレオン3世とでもいうべきもの。
マヤ文明のなかの平等志向の生命力はサバティスタ人民解放軍とその蜂起(1994)の中に生きていた。
マルクスが展開し、もはや周知のこととなっているいくつかの事柄の中で、売りになりそうな一点を取り出し、あたかも自分が発見したかのように騒ぎ立てるのはいかがなものだろうか。

いまこの領域で焦点となっているのは、マルクスが考えるヒントとしたエンゲルスの発想を、逆にエンゲルスがマルクスの大発見のように教条化した史的唯物論を、エンゲルス当時のものではない人類学や考古学の最新の成果から見直すことや、地球的な物質代謝の視点でマルクスが考えたことの再発見を知ることではないのか。

対抗側の非暴力では決して退治できない怪物が自重で崩壊するのをただ待つのではなく、なんらかの方法で攻撃的に無力化しようと思えば、思いつきだけでは無理なのである。
マッチョな医師による患者支配を廃止して、すべてを恒常的な対話の状態に留め置くとすれば、決め打ちのような「診断」は姿を消して「その人に合わせた説明」と呼ぶべきものになるだろう。
つまり、家庭医療学はアナーキスト医療、あるいはフェミニスト医療というべきものなのである。
ある日、女性権力が男性権力を打倒して自らの政府を樹立するということは考えられない。
変革とは、ゆっくりと男性権力のバカバカしさを証明して、それを解体していくだけのことである。
そう考えると、フェミニズムはアナーキズム以外のものではありえないのではないか。
男尊女卑の偽物アナーキストがこれまで山積みになるほど存在したとしても。
私達が作り出そうとしているものは、資本主義あるいは新自由主義の中の、非資本主義的、非新自由主義的な大小の島のようなもの、及びそのネットワーク網状組織である。
こういう存在を意味する言葉があるのを知った。「包領」である。

ウィキペディアによると
「包領(ほうりょう、enclave)は、ある1つの別の領域に四方を完全に囲まれた領域である。 レソトは、南アフリカ共和国に囲まれた包領である。 国の場合は、1つの外国に完全に囲まれた国となる。 現在の独立国では、レソト(南アフリカ共和国による包領)、バチカン、サンマリノ(共にイタリアによる包領)があたる」
○フェミニズムつまり「ケアの倫理」に裏打ちされた家庭医療学との合流を果たしたあとの民医連は、何に直面するのだろうか。

それはフェミニズム的視点から資本と国家の馬鹿馬鹿しさを浮き立たせる(同じ土俵に立たない)世界変革戦略の様式であるアナーキズム、資本と国家に正面から同じ土俵で階級的にぶつかっていくマルクス主義ー今の課題は戦争防止と気候危機・食糧危機に際しての国家的強制の発動に他ならないーとの、統合を医療という現場で実現させる問題である。

国家を無意味化させる自己統治的地方政府主義ミュニシパリズム路線と、戦争放棄・生命の維持を守り抜く国家路線の統合が、医療の場でも必要になっているのは現実の話である。

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2024年6月26日 (水)

健康相談の秘訣

血圧、血管年齢、骨密度くらいからなる「まちかど健康チェック」に付属するような形で「健康相談」を頼まれることがある。

実は、この取組みがいま極めて重要である。いろんな民医連事業所が相当な経営危機にあるが、最終的には地域住民からどれだけ支持されるかが存続の境目になる。
上下関係を色濃く残した病院のなかでの住民との人間関係は支えるー支えられるという仲の良い関係にはならない。

したがって、戦略的にも、自分の民医連人としての初心を見つけるためにも、面倒くさくても、街の小さな集会所に出ていかなければならない。場合によっては、そこからなにか事件の起こっている可能性がある人家を訪問する必要もある。
そのとき、「この行動で組合員が○人増え、出資は○円でした」という数字目標追求からは一歩離れないといけない。厳しく言うと、そんなことに終始していたから今の苦境があるのだ。

健康相談には方法論がある。
やってはならないのは健康チェックの数値に頼って「診断」し医学的にアドバイスするというようなことである。そんなことは誰も求めていないし、その姿勢でいる限り仲良くもなれない。

相談者の最初の一言から「主訴」を組み立てて「問診」するのもだめだ。そんな無理はしないで、ひたすら、世間話に徹しなければならない。
そうすると、思いもかけない仮説が浮上してきて心が躍ることもある。

とはいえ、実利的なことを教えてあげると喜ばれる。そういうことに役立つのが、以下の一冊。自分で指圧できるツボをいくつか知っておくと仲良くなるのが早い。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000390699

東洋医学はなぜ効くのか ツボ・鍼灸・漢方薬、西洋医学で見る驚きのメカニズム

 

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2024.6.26 県連理事会挨拶

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  蒸し暑い夕方の会議参加ご苦労さまです。
5月の県連総会後初の理事会です。
最近の情勢に簡単に触れて挨拶に代えたいと思います。

言いたいことはたくさんありますが、中でも6月19日に地方自治法の改定が成立してしまったことはきわめて重大でした。
非常時には国が自治体に指示できるという内容です。コロナ禍で自ら作り出した混乱を口実に、国が公然と自治体に命令できるようにした、まさに「ショック・ドクトリン」の見本のようなものです。
憲法の柱として地方自治があります。それは第2次大戦において、自治体が戦争遂行の道具になってしまったことへの反省によるものです。国と県と市町村とは対等であり、命令する、されるという関係にはないというのが団体自治といいます。そして自治体運営は住民参加で行う原則を住民自治といい、団体自治と住民自治とで地方自治は構成されています。この2つからなる地方自治があるからこそ、私達は自分の足元から「地域循環経済」「ミュニシパリズム」という変革の波を日本全体に広げるという展望を持つことができるのです。
しかし、今回の改定はその前提を掘り崩すものでした。ほとんど改憲したに等しいと言われます。自治体を守るべき国が、自治体を支配するものに変わった訳ですから。
結局何を狙っているかというと、中国どの戦争の準備です。それ以外にはない。

僕たちが安穏としている間に戦争の準備が国民の首を絞め上げているのに気づかないといけないと思います。
県連総会では海上自衛隊呉基地の増強についてお話しました。戦闘機も搭載できる事実上の空母「かが」という最大の護衛艦が配備され、太平洋・インド洋に活動範囲を広げています。その経過中に起こったのが4月21日の南鳥島付近でのヘリコプター同士の衝突、8人の自衛官死亡事件でした。
いま進行しているのは、佐賀空港に陸上自衛隊オスプレイ17機を配備するための工事です。この17機というのは、日本がアメリカから輸入したオスプレイの全部で総額3600億円でした。世界でもオスプレイを買ったのは日本だけで、アメリカ本国でも今年生産ラインが止まるという欠陥兵器です。しかし、安全性よりも戦闘能力の高さから日本に押し付けられたのです。
オスプレイは佐賀空港の滑走路を使用しますが、工事が終わると、すぐ近くにある長崎県佐世保市の陸上自衛隊水陸機動団(日本版の海兵隊=殴り込み部隊)と綿密に連携して、南西諸島での中国との戦闘に備えるとされています。
呉―岩国―佐賀-佐世保と連なる線上に私達が暮らしていることを鋭く意識すべきだと思います。

話を医療活動に転じたいと思います。
今後の医療介護活動の最大の課題は、家庭医療学を全県連的に学ぶところにあると僕は思っているのですが、それに関連したことを少しだけお話します。

日本に家庭医療を導入する上で大きな役割を果たした藤沼康樹先生が、雑誌「総合診療」に連載した「55歳からの家庭医療」をまとめて一冊の本として医学書院から出版しましたが、その中にこんな話がありました。

ある糖尿病患者が、食事療法がなかなか実行できず、繰り返し栄養指導しても行動が変わらなかった。しかしあるときから体重が減り、血糖コントロールが改善してきた。やっと外来での指導か実り始めたかと考えたが、変化の原因は医療現場以外のところにあった。トレーディング・カードゲームをしていて、日曜日の会場でよく対戦していた中学生が1型糖尿病であると知った。ゲームの間に少し話していると、少年が自己インスリン注射や食事療法の大変さを屈託なく話した。
それを聞いているうちに「何かに打たれたような感覚」が生じて、それから食事や運動に取り組むようになった。

藤沼先生はこの「何かに打たれる」ことをエピファニー、顕現と呼んでいます。本来の意味はキリストが現れることを言いますが、私は「初心」と呼びたいと思います。
よく、誰でも初心があるだろう、それを忘れるな、思い出せと言いますが、僕はそれは違うと考えます。
初心、つまり行動変容のきっかけを獲得している人は稀です。
誰にでもあるのはイニシエーション、つまり入職の儀式だけです。民医連の事業所に就職したら、入職式とオリエンテーションをくぐって民医連人になると思うのは幻想でしかありません。
本当の初心を獲得することが、今何より大事です。

藤沼先生は診察室の外の地域に、患者を変える、つまりエピファニーを起こす力があると主張していますが、僕は民医連の職場に民医連の初心を与えてくれる力があると信じています。
誰かが屈託なく患者支援の苦労や患者さんの感謝の言葉を語ってくれる時、それから目を背けている自分が見え、「何かに打たれる」、そこに初心が生まれてくるのだと思います。
僕らがいつまで経っても小集団であり、あまつさえ消滅の危機に立っているとすれば、初心を生むことにあまりに無力だったということを意味するのだと思います。
今こそ、私たちの行動変容が必要な時です。初心を見つけましょう。
その呼びかけを今回のあいさつにしたいと思いますかが、最後に、家庭医療を学ぶ2冊の日本語の本を紹介して終わりにします。
今日は部会ですが、熱心な議論をよろしくお願いします。

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2024年6月24日 (月)

近況

1年くらいも続くハン・ガン「少年が来る」の読書会も、そろそろ終わりに近づいている。
通しの朗読役を引き受けながら、自分の口を通して出る作品の言葉に感極まりそうになって、若い人たちの手前もあるので、朗読をやめて無理矢理の冗談を差し挟むことが多くなった。

それとは別に、日常生活のいろんな局面で、何かが変化していこうとしているのを感じる。永遠に続くものはないのだ。それが意識に上るたび、息が止まる気がする。
臨床への好奇心と、診療と伴走的生活支援を統一することへの意欲は変わらないし深まる一方だが、それだけを残した透明な存在になって行くのだろう。

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2024年6月21日 (金)

「ノクターナル アニマルズ」という映画 2017年

病棟の患者さんにあれこれある中での行事続きで、ちょっと気晴らしがほしかったので、ネットフリックスで2017年の「ノクターナル アニマルズ」という映画を見る。
ジェイク・ギレンホールが主演。
もうなくなったギンレイホールという映画館に似た名前だが。

フォークナー「野生の棕櫚」のような、類似構造の二つの物語が同時進行するというのは、すでに一つの様式になっているようで、そう気づけば面白く見ることができる。

こういう場合、一方が救いようのない悲劇でも、片方をハッピーエンドにすると、見終わった時を不安にさせずに済むが、新しい映画ではそうもいかないというところかな。

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NHKのヒューマン・エイジ

①NHKのヒューマン・エイジ。取り上げるテーマは良いが、まとな主張に対して、ほぼ必ず、民間を活用する技術の進歩で危機は乗り切れると主張する論者をぶつける。斎藤幸平に対して宇宙飛行士の山崎直子。昨夜は藤原辰史に対し環境工学の長谷川知子。女性をその役に選ぶのもどこが作為的。

②食を取り上げたNHK ヒューマン・エイジでは、美食のためだけに年間100回も飛行機に乗るという女性が出ていた。

それとは比べようもない短距離だが、僕も会議だけのために年間50回も飛行機に乗っていた。6年間も。なんと無自覚なことだったろう。個人としても組織としても。

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外的な強制と見えるものも、実は自らが生み出した必然

民主主義革命から社会主義革命に急速転化する二段階連続革命論から、400年間くらいも続く緩やかな民主主義革命という方向に認識が変わっていったのだが、その分、究極の目標が遠くなり、動機づけが難しくなった。売上を競う商社風で安易な数値目標競争は無理になったのだ。

そこでふと思い指すのは田中光春さん事件。
彼が「働くものの医療機関」とは「労働者階級の医療機関」ということだ、したがって我々の使命は労働者階級の使命である社会主義革命だと言って講演して歩き、一部から(僕を含む)喝采を浴びたのは40年くらい前。
すぐに、それは誤りだとされたが、なんとなく閉塞感を感じ始めていた人たち(僕を含む)には「一服の清涼剤」、今風にいえばアヘンだったのだろう。

閉塞感も行き詰まると、昨日よりは今日、今日よりは明日の改善に意義を見つけたくなる。「微力だが無力ではない」という自己鼓舞、あるいは自己暗示。這ってでも前に進むという決意。

それも難しいとき、たとえ襤褸のごとく忘れ捨て去られても、誰かのためになろうと思った唯一無二の経験の、自分とともにある記憶は残ったと思うしかなくなる。

そのように年齢を重ねていくことの悲しさを老いというのだろう。

しかし、ここからが大事なのだが、変化は、もはや強制的な力として、そこにあるのだ。
マルクスが言っていたのもそのことで、資本主義が自ら作り出してきた必然的な環境変化なのだが、その中に暮らす人類にとっては外的な強制として、資本主義を廃絶するしか生き延びる道がなくなったのである。

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多様性によって絶滅を免れた恐竜

恐竜が絶滅したのも、それ自体は外的な偶然、強制だった小惑星との衝突に遭遇したとき、そこから生き残ることのできる仕組みを準備できていなかった内的な必然性から、と考えていると、実は鳥類を生み出す多様性は準備されていて、彼らは、種ではないとしても、目か科のレベルでの絶滅は免れたのだと気づいた

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団地の健康相談

団地の「健康チェック」での相談3件。そもそも受診しようと思わない段階での相談だから、「主訴」などはない。未分化以前。
なぜ相談したかったかに好奇心を持ちながら、世間話を続けると、3件とも意外な背景が分かってくる。診察ではないから問診らしいことも極力控えていても、聴く姿勢さえ見せれば、語られるべきことは語られる。結論は相談者自らがまとめて去って行く。それで感謝されるから面白い。

これに研修医を起用すると、必要以上に医師を演じようとするからうまく行かない。もちろん、起用する前の指導が不足しているからなのだが。

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2024年6月10日 (月)

死体を想像する

谷間に人を焼く臭いがこもり、夜には山の斜面から野犬の群れが降りて来た、と川本さんは言った。同学年だから、それは彼にとっても伝聞だが、そう聞くと初めて、目の前の己斐小学校の1945年の夏の校庭に並べられた死体を想像できた。


今夜、小説を読む。死体の顔に降った雪片は溶けなかった。生きた人の顔に降る雪はすぐに溶けるのに、と書かれたところを読むと、ようやく済州島の中山間部の国民学校の1948年の校庭に積み重ねられた死体を想像できた。


2024年6月8日の死体はどんな風に置かれているのだろう。

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